書評
『べつの言葉で』(新潮社)
三つの言語の空白埋める創作行為
政治や経済的な要請ではなく、自らの意志で「言語的亡命」をはたす作家がいる。言語それ自体が書き手の人生を変えることがある。ジュンパ・ラヒリはそういう作家のひとりだ。ベンガル語を母語として育つが、幼少時に渡米、英語を第一言語として生きていくことになった。「継母語」だと評する英語で小説を書きだし、ラヒリは瞬く間に世界的名声をものにした。しかし、母語のベンガル語、第一言語の英語のほかに、なぜか強烈に惹かれ、切実に必要とする外国語が現れる。二十代のローマ旅行で深く魅了されたイタリア語だ。以来、「湖の岸沿いを泳ぐように」、この第三の言語を米国でこつこつと学び、ついに数年前、湖岸を離れ、足のつかない深みへと彼女は泳ぎだした。イタリアへの移住だ。本書は、ラヒリが試行錯誤の末に身につけた第三の言葉で綴る初エッセイ集である(掌編二編併録)(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2015年)。
買い物のさいに投げかけられる何気ない残酷なひと言。文芸フェスティバルで自分のイタリア語の文章を自己翻訳する困難さ。公園をランニング中にイタリア語で丸ごと降りてきた「物語」。ラヒリは雑多な日常のなかに耀(かがや)く瞬間を拾いあげる。「壊れやすい仮小屋」の章は、私にはまるで芭蕉の「奥の細道」のイタリア語訳のようにも感じられた。書きだしはこうだ。
イタリア語で読むとき、わたしは自分をお客か旅人のように感じる。
外国語とかかわる者は永遠の客人(まれびと)か旅人だ。芭蕉の「百代の過客(かかく)」を英訳者のアイヴァン・モリスは「常(とこ)しえのtraveler/voyager(旅人)」と訳し、ある独訳者は「永遠の中にほんのいっとき留まるgast(客人)」と訳した。複雑な文化的背景をもち、常に言語と言語の間に住まうラヒリはまさに「日々旅にして、旅を栖(すみか)と」する過客として、自らを新しく作り変えていく。「わたしには祖国も特定の文化もない。もし書かなかったら、<中略>地上に存在していると感じられないだろう」と。
二十世紀の後半から「越境文学」の時代が到来した。しかしその大半は諸言語から英語というグローバル言語への流入を意味している。政治力が弱く小さな言語から、より強大な言語へ、必要に迫られて言語を変える。しかしラヒリの越境はその逆であるうえ、外部からの「必要」はなく、自己の「欲求」があるだけだ。たとえば、ベケットは英語から時おりフランス語に切り替えたが、当時は、言語の政治的覇権はともかく、文化的な権威は英語より仏語のほうが上だった。現代になると、仏語で創作する米作家ジョナサン・リテルや、米国出身の日本作家リービ英雄など少数ではないか。
しかしラヒリはこう言う。自分にとって三つの言語は、英語を底辺、ベンガル語とイタリア語をあとの二辺とする三角形であり、その額縁の中に自画像が見つけられないが故、空白を埋める衝動として、創作行為が生まれてくる、と。「不完全であること」「制限されていること」こそに、自由と解放がある。
「別の人間になりたい」と願う女性翻訳家を主人公にした「取り違え」という掌編が印象深い。彼女は「黒いセーター」一枚を持って外国へ移り住む。そこで透明な黒い服ばかり売っている洋服店は、まさに黒子(くろこ)たる翻訳者の象徴。この店で自分の黒いセーターを失(な)くし、別の黒いセーターを得る主人公は、異言語を通して生まれ変わる。
一語一句に、言語的断裂の痛みと歓喜が垣間見え、読む者にも茨の茂みとなるような、一転して澄んだ朝露の滴となるような書。今年の翻訳文学で最も大切な一冊となった。(中嶋浩郎訳)
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