書評
『山の温泉へ行こう』(東京書籍)
お湯につかって
温泉については、前は「おじいさんおばあさんが行くもの」とのイメージを持っていたが、社会人になってから、「あー、温泉に行きたい」
と口をついて出るようになった。おばあさんたちの半分も働いていない小娘が、のんびりしたいだなんて、生意気だとは思うけど、いったんおぼえたあの味は、なかなかに忘れがたい。
私の場合、忙しくて頭がかっかしているとき、よけいそうなる。二十代は二十代、三十代は三十代なりに、いろいろあるのだ。
イラストレーターでエッセイストでもある平野恵理子さんの『山の温泉へ行こう』(東京書籍)は、絵と文、ともにほっとする。
いまどきの中高年は根性があるので、山というと「百名山」登頂を企て、がしがしとてっぺんめざす人が多いが、平野さんの山行は、そうしたストイックなものとは対極にある。
「楽なのがスキ」と公言し、ロープウェイやリフトがあれば、迷わず乗る、ある意味では、正統派のおばあさん的楽しみ方だな。南伊豆の旅を例にとれば、下田の駅に降りたらまず、うなぎ屋へ寄る。農家の出店で、油妙めするとおいしいとすすめられた菜っ葉と球根(こちらは食べるためではなく園芸用)を買い、得意のロープウェイで寝姿山へ。ハイキングコースをくだり、帰りは、むろん温泉でひと休み。「下田はやっぱり、うなぎとアロエと蓮台寺温泉だよね」なんて。
この人いくつ? たしかまだ、四十前だぞ。
著者はなぜか、山へ登る前に、自分へのお土産を買いたくなる癖があるらしく、八甲田のふもとでは下駄に心を奪われて、北八ケ岳へ至る駅前スーパーでは、ニットのモンペふうスラックスと厚地タイツを購入しそうになり、危うく思いとどまったそうな。このラインアップも相当に、おばあさん的。
北アルプスなんていう、山オンチの私でさえ「おおっ」とうなる、すごそうな山にも登っている。が、『散歩の気分で山歩き』(山と渓谷社)なる本もある著者のこと。脇目も振らず進むのではなく、風景やごはんといった、おまけをたっぷり楽しむ。高原で食べる魚肉ソーセージは、実においしそう。
おまけの最たるものが、温泉だ。近頃では、山行の計画中から、地図上の♨(温泉)マークがぱっと目につくようになったとか。
旅の思い出の向こうに、著者のたどってきた「道すじ」のようなものが、ちらちら見える。高校時代、美術部の活動で来た箱根で、先輩の女性が、将来挿し絵の仕事をしたい、と語っていたこと。会社勤めを辞めた夏、友だちと行った八丈島の温泉。山ではなく海の温泉だが、番外編として収められている。
フリーになったと言えば聞こえがいいが、事実上は失業者。二十五歳の女三人、ダイビングに興じたあと、ホテルのジャングル風呂から上がり、テラスで夕陽を眺めながら、ちょっとしみじみした気持ちになる。
「ねえ、歳とったらまたここに来ようね」「そうだ、六十歳になったらこのホテルで豪遊しよう」。そんな台詞を言わせるのが、温泉と夕陽と「二十五歳」という年齢なのだ。
著者と同世代の私は、「あの頃」の自分を重ねずにはいられない。会社勤め二年めの秋、八丈島ならぬ式根島の海中温泉にいた。転職を考えて、受けた試験に落ちた私は、がっくりときて「傷心旅行」に出かけたのだ。
秋の陽は釣瓶落としで、暮れゆく海はもう寒く、かんじんの温泉は潮の満ち引きの関係か、情けないほど冷たくて、足先だけつけ、早々に引き上げた。
社会に出たての頃はすでに過ぎ、ふと立ち止まる曲がり角。前途はあるなりにも、
「この先、私はどうなるんだろう」
と不安が胸をよぎったりする。その感じが、女三人の交わす約束から、よくわかる。
一方で、「豪遊」といっても八丈島のホテルのスイートくらいしか思い描けないのが、かわいいと言おうか、初々しいと言おうか。二十五歳の著者にとっては、六十歳は遠い「いつか」でしかなかったのだ。それは、私も同じこと。
それから十五年近くが経ち(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2000年)、六十歳が少なくとも非現実的ではなくなった今、その年齢が著者は「少し楽しみ」という。若いときは、家族や仕事など、それぞれの事情を抱え、おたがいにそっとしておきたいこともある。が、六十くらいともなると、そんなことも身からはずれて「ただの自分、ただのあなたとして話せるようになる」と、著者は何かで読んだという。
そう、さまざまなものを、きれいさっぱり洗い流して、ひとりの裸の人間として湯につかる姿が、さまになる歳なのだ。それに比べりゃ、私らはまだまだ垢だらけ。
温泉が似合うおばあさんになりたい。その願いを確認するため、私はときどき入りにいくのかも知れないと、著者の旅を通して、気がついた。
【この書評が収録されている書籍】
初出メディア

鳩よ!(終刊) 2000年11月号
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