書評
『人質の朗読会』(中央公論新社)
ささやかだが忘れがたい今生の物語
五十三歳のインテリアコーディネーターの女性は、少女のころ、公園のブランコで足を傷つけてしまい動けない鉄工所の工員に、クヌギの木の枝を切って、杖(つえ)を作ってあげたことがある。工員を助けたのは、何気ない行きずりの出来事。少女は、火花避(よ)けの鉄のお面を被(かぶ)った鉄工所の工員たちの作業、「濃い赤色が極まって、所々青っぽく光る火花が鉄の塊に向かい噴射される」瞬間に魅了されていた。その後この工員がどうなったか知らない。彼女は大人になり、車の運転をしていて大事故に巻き込まれ重傷を負う。八日も意識不明。けれど彼女は夢の中で、記憶から消え去っていたはずのこの工員と出会う。工員はあの魅力的なお面を着け、彼女の切断寸前であった足を「ひんやりとしたガラスのように美しい火花」で溶接する。意識が戻ると工員は消えていて、足は奇跡的に切断を免れていた。工員のためにクヌギの木の枝を切ったことと、足を切断されかかった現実は、時間を貫く地下茎のような感覚で繋(つな)がっている。
ある作家はその昔、公民館の受付の女性に導かれる感じで、B談話室に入り込んだ。その談話室では様々な会合が持たれていた。失われていく危機言語について語られる会に潜り込んでしまった彼は、赤ん坊が将来罹(かか)る病を、先祖の骨で作った人形に吹き込むための特別の言語を自分は話すのだと、その場しのぎの出鱈目(でたらめ)を言う。みな疑いもせずに彼の作り話を聞いてくれた。その後も彼は、B談話室の奇妙な会に次々と参加する。そこには、彼を黙って受け入れてくれる人々がいた。彼は世界のあらゆる場所にB談話室はあり、あらゆる種類の会合が開かれていて、ささやかな繋がりを持つ者たちがほんの数人そこに集まり、しかもその部屋では、その他大勢の人々にとってはさほど重要でもない事柄が、この上もなく大事に扱われ、みな、真に笑ったり泣いたり感嘆したりできることを知る。出鱈目な話が、創作者の意図を越えて意味を持つ場所。このB談話室での体験こそ、彼が作家になった理由だった。彼はフィクションの本質を発見したのだろうか。
もう一人の話はこうだ。
五十九歳になる貿易会社事務員は、夫を亡くしたあと四十六歳のとき、通勤の電車の中で、槍(やり)を持った青年を見かけた。会社を休み、ふらふらと追いかけて行き、彼が住宅地の真ん中にあるぽっかりとひらけた競技場で、槍投げの練習をするのを見る。繰り返される動作に見とれる。「歩きながら青年は考えている。さっきの投擲(とうてき)を頭の中で再現し、修正を施しているのだろうか……青年の背中は死者を悼む姿に似ている。死者が倒れ伏した場所まで、一歩ずつ歩み寄ってゆき、抜け殻となった魂を地面から引き抜く……それを握り締め、自らに引き寄せ、遠い宙の果てに去ってしまった彼らの声を聞きながら、再びこちら側へと戻って来る」。彼女はその後も、繰り返しこの体験を思い出す。「青年の槍投げを見た私は、もう決して、見ていない私には逆戻りできなかった。心の片隅にぽっかりと切り取られた楕円(だえん)の競技場は、いつでも私の中にあり、青い空と深い静けさをたたえている」
死者と会話し、天上と繋がる場所を知ってしまったのだ。限られた肉体が、それでもより高く遠くまで思いを放擲する祈りの美に、触れてしまったのである。
人生の中で消し去ることのできない出会いの物語がある。劇的でもなく、ことさら意味深くも思えないけれど、一旦記憶の中に染みついたら取り除くことなど出来ない、意識の底に刷り込まれる出会い。そのような物語が八人+一人の男女によって語られる。ただしこの男女がそれぞれ自分の物語を語るのは地球の裏側、ゲリラに身代金目当てに拉致され幽閉された元猟師小屋での、自主的朗読会においてだ。本の冒頭で、すでに八人は救出作戦の失敗で殺されていることが明かされている。つまり死者が語る自らの物語なのだ。残る一つの物語は、人質の朗読会を盗聴した兵士の述懐。
物語によって死者たちは蘇(よみがえ)り、この世と繋がり続けることが出来るのだが、果たしてここに在る物語は、本当に起きたことだろうか。
彼らは人質として非業な死を覚悟していたに違いなく、この世に生の証としての一筋の糸を結びつけておきたかったはず。死を覚悟して初めて紡ぎ出される、フィクションであったのかも知れない。
これらの物語は、生きて在る我々の意識の底に染みつく。彼らにとっての何気ない奇妙な出会いが、まさにそうであったように。
フィクションが入れ子のように重なる物語はいま、特別の感慨を呼び寄せないではいられない。八人の非業の死の背後に、大震災の一万人を越える死が見える。そこには一人一人が語る一万を越す物語があるはずだ。
彼らもまたこの人質たちのように、語りたい、語るべき、ささやかだが忘れがたい物語を持っていただろうに。
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