書評
『生物学の旅―始まりは昆虫採集!』(新潮社)
世間では岡田節人さんのことを、どうやら『鉄腕アトム』に登場するお茶の水博士のモデルだと信じているようである。何人もの人から、そう聞かされたことがあった。
もっとも、わたしの見立ては少し違っている。同じ手塚治虫の漫画でも、彼はどちらかといえば、『火の鳥・未来編』に登場する生物学者、猿田博士に近いのではないだろうか。この大博士は人類が核戦争で滅亡したあとも、ただ一人人里離れた研究所に閉じこもり、生命の秘密を解くことに余念がない。目標の遠大なるを知って、ときにゲーテを紐解き、心を慰める。もちろん現実の節人さんは人間嫌いなどでぱけっしてない。人間嫌いであるどころか、オシャレこそ長命の秘訣だと宣言し、音楽を愛好してやまない。
だが、岡田節人と手塚治虫を比較してみたいという気持ちが、わたしにもないわけではない、彼らは1920年代中頃に、伊丹と宝塚という、モダニズム全盛の阪急文化圏のなかで育ち、昆虫採集に夢中な、幸福な少年期を過ごした、いずれもが恐ろしく早熟だった。手塚が小学生時代にすでに精密な昆虫のイラストノートを残しているように、節人さんはなんと7歳で『昆虫界』という雑誌に、オサムシとコガネムシの採集について、報告を寄稿している。彼らはともに自己の好奇心に生涯忠実であって、大学で医学や生物学を修めると、どんどんユニークな領域に踏み出していった。関西の旧制高校で知ったゲーテの偉大さは、その後も忘れられることがなかった。手塚がアニメのプロダクションを結成して、後進を育てていたころ、節人さんは研究所を設立して、発生学のグループ研究に邁進していた。ほどなくして彼らは二人とも、国際的にひどく多忙な日本人となった。人がついモデル問題を思い付いてしまったとしても、不思議ではない。
『生物学の旅』は、その岡田節人の自伝的エッセイ集である。同様の書物として著者はすでに『学問の周辺』(佼成出版社)を世に問うているが、今回は専門であった発生学の発展の歴史と平行して、著者の知的探求の物語が綴られている。高校時代に理科の教師から生物の再生現象の謎を教えられた節人さんは、ミミズ、イモリ、プラナリアと実験を重ね、ついに細胞分化転換の謎を解くことに人生を捧げることになった。本書はこうした個人的な物語を語っていながらも、同時に18世紀フランス啓蒙思想における生物観や、発生学における前成説と後成説の対立の系譜といったぐあいに、科学史的叙述にも満ちている。その意味で、戦前の関西のブルジョワ家庭の貴重な記録であり、また戦後の一科学者の思索の歴史でありながらも、発生学の入門書でもあるという複数の側面が、この書物には見受けられる。
信じられないエピソードが、次々と登場する。江戸時代に始まる造り酒屋を継いだ父親が、博物学に入れあげたあまりに、神戸の動物商から南方の珍しい鳥はおろか、象まで買ってしまった話。台北帝大で学んだ少壮の学者が、戦時中に京大に移って、粗悪極まりない紙に印刷した短い論文のなかに、生命のあらゆる鍵は核酸であると記し、フィリピンの戦場に消えた話。それは文字通り、DNAが貴重なキーワードとなった今日の分子生物学を先取りした発見であった。著者はのちに60年代に入って、あるアメリカ人研究家が彼の発見を取り上げ、キチンと言及したことを、忘れずに書き添えている。海外の哲学や文芸理論における剽窃や盗用、解説書の氾濫にうんざりしているわたしのような文化系の批評家には、こうした理科系の学者たちの行動様式がひどくうらやましいものに思えたことを、告白しておきたい。
何千匹ものイモリやプラナリアを相手に実験を続けてきた節人さんは、生物学者は実験対象である動物に愛情を感じることが、まず一番の条件だという。学問とは直線的にではなく、螺旋状に発展してゆくもので、つねに問題の回帰という現象が生じるともいう。いずれもが、長年にわたる探求に由来する教えであろう。わたしは本書を読んで、映画監督ジャン・ルノワールの自伝を読み終えたときのような、ある爽快さを感じた。「生きもののしなやかさ」を説く著者の、精神のしなやかさが、頁という頁に溢れているためであった。
【この書評が収録されている書籍】
もっとも、わたしの見立ては少し違っている。同じ手塚治虫の漫画でも、彼はどちらかといえば、『火の鳥・未来編』に登場する生物学者、猿田博士に近いのではないだろうか。この大博士は人類が核戦争で滅亡したあとも、ただ一人人里離れた研究所に閉じこもり、生命の秘密を解くことに余念がない。目標の遠大なるを知って、ときにゲーテを紐解き、心を慰める。もちろん現実の節人さんは人間嫌いなどでぱけっしてない。人間嫌いであるどころか、オシャレこそ長命の秘訣だと宣言し、音楽を愛好してやまない。
だが、岡田節人と手塚治虫を比較してみたいという気持ちが、わたしにもないわけではない、彼らは1920年代中頃に、伊丹と宝塚という、モダニズム全盛の阪急文化圏のなかで育ち、昆虫採集に夢中な、幸福な少年期を過ごした、いずれもが恐ろしく早熟だった。手塚が小学生時代にすでに精密な昆虫のイラストノートを残しているように、節人さんはなんと7歳で『昆虫界』という雑誌に、オサムシとコガネムシの採集について、報告を寄稿している。彼らはともに自己の好奇心に生涯忠実であって、大学で医学や生物学を修めると、どんどんユニークな領域に踏み出していった。関西の旧制高校で知ったゲーテの偉大さは、その後も忘れられることがなかった。手塚がアニメのプロダクションを結成して、後進を育てていたころ、節人さんは研究所を設立して、発生学のグループ研究に邁進していた。ほどなくして彼らは二人とも、国際的にひどく多忙な日本人となった。人がついモデル問題を思い付いてしまったとしても、不思議ではない。
『生物学の旅』は、その岡田節人の自伝的エッセイ集である。同様の書物として著者はすでに『学問の周辺』(佼成出版社)を世に問うているが、今回は専門であった発生学の発展の歴史と平行して、著者の知的探求の物語が綴られている。高校時代に理科の教師から生物の再生現象の謎を教えられた節人さんは、ミミズ、イモリ、プラナリアと実験を重ね、ついに細胞分化転換の謎を解くことに人生を捧げることになった。本書はこうした個人的な物語を語っていながらも、同時に18世紀フランス啓蒙思想における生物観や、発生学における前成説と後成説の対立の系譜といったぐあいに、科学史的叙述にも満ちている。その意味で、戦前の関西のブルジョワ家庭の貴重な記録であり、また戦後の一科学者の思索の歴史でありながらも、発生学の入門書でもあるという複数の側面が、この書物には見受けられる。
信じられないエピソードが、次々と登場する。江戸時代に始まる造り酒屋を継いだ父親が、博物学に入れあげたあまりに、神戸の動物商から南方の珍しい鳥はおろか、象まで買ってしまった話。台北帝大で学んだ少壮の学者が、戦時中に京大に移って、粗悪極まりない紙に印刷した短い論文のなかに、生命のあらゆる鍵は核酸であると記し、フィリピンの戦場に消えた話。それは文字通り、DNAが貴重なキーワードとなった今日の分子生物学を先取りした発見であった。著者はのちに60年代に入って、あるアメリカ人研究家が彼の発見を取り上げ、キチンと言及したことを、忘れずに書き添えている。海外の哲学や文芸理論における剽窃や盗用、解説書の氾濫にうんざりしているわたしのような文化系の批評家には、こうした理科系の学者たちの行動様式がひどくうらやましいものに思えたことを、告白しておきたい。
何千匹ものイモリやプラナリアを相手に実験を続けてきた節人さんは、生物学者は実験対象である動物に愛情を感じることが、まず一番の条件だという。学問とは直線的にではなく、螺旋状に発展してゆくもので、つねに問題の回帰という現象が生じるともいう。いずれもが、長年にわたる探求に由来する教えであろう。わたしは本書を読んで、映画監督ジャン・ルノワールの自伝を読み終えたときのような、ある爽快さを感じた。「生きもののしなやかさ」を説く著者の、精神のしなやかさが、頁という頁に溢れているためであった。
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