書評
『西洋中世の男と女―聖性の呪縛の下で』(筑摩書房)
夫婦生活までが教会の管理だった
結婚式が最近、私の周囲で続いている。職業柄で招待されることが多いのだが、決まって式場の案内には、○○家と××家の御両家結婚式とある。そんな形式の結婚式が何時始まったかは、実は問題で、近代の家制度と戦後の結婚式場の整備に関わるらしいが、またそれだけに、家の結びつきが形を変えて深く日本社会のなかに根づいていることを示している。
こうした日本と比較して、西洋社会は大きく異なる。個人が全面に登場している。個人と個人が教会で神に愛を誓って、結婚する。そこに家は登場しない。しかし、西洋社会が果たして古代からそうであったかというと、決してそうではなかった。古代ローマには家の結びつきが結婚の前提にあったのである。
西洋中世社会史に広い視野と豊かな構想を示してきた著者は、西洋の個人がいかにして登場してきたのか、その問題を古代から中世にかけての男と女の関係史として把握しようと試みている。
キーワードは、「聖性」あるいは聖なるもの。本の副題が「聖性の呪縛の下で」とあるように、キリスト教の普及の中で、聖なるものがいかに求められていったか、そしてその聖性の呪縛からの解放がどのように求められたか、これである。
聖なるものを求める運動は、古代末期に、ひろく人々の心をとらえ、それへの憧れのなかでキリスト教徒は生きていた。ところが中世になって、その聖性を聖職者が独占し、教会が介入して、個々人は聖なるものを教会や修道院でしか実現しないものと見るようになった。男と女の性的関係にも教会が関わり、厳しい規制がつくられた。結婚は両性の合意による聖なる結びつきとして考えられ、教会に管理されたのである。
西洋社会の個人は、実はここに認められるのである。だがそこにどんな問題があったか。一二一五年、成人男女は年一度は司祭に犯した罪の告解をおこなうことが義務づけられたが、著者の紹介する、告解の際に司祭が罪の許しを与えるためのマニュアルである贖罪(しょくざい)規定書は、夫婦の性的関係まで立ち入っていて驚かされる。
お前は、妻か妻以外の女と犬のように背後から結合しなかったか。もしそうしたのなら、パンと水だけで十日間の贖罪を果たさなければならない。
といった調子で、それらを表に示した研究では、セックスが許されるまでには二十一の関門があり、それを通過しても「一回だけです、楽しまないように、しっかりと」等の注文がつく。
だがこうした性の管理があれば、実態は離れずにはいられない。聖なるものを個人に取り戻す運動が生まれてくる。教会の管理からの解放を求める動きが始まる。それは近代社会の動きとして本格化するが、著者は、その早い時期での動きをアベラールとエロイーズの往復書簡から探りだしている。
しかしそれ以後の動きは、残念ながら後の課題という。全体はまだ整理されておらず、前史が描かれた段階と言えなくもない。しかし男と女の関係史という構想が極めて魅力的で、可能性の豊かであることを示していよう。
ALL REVIEWSをフォローする






































