書評
『さみしくなったら名前を呼んで』(幻冬舎)
「まだ何者でもない」けど「まだ諦めたくない」。女の子の焦りと抵抗を逞しく描いた短篇集
若さとは、まだ何者でもない、という無名性と、これから何者にもなれる、という可塑性とを共に持っているということだ。そして無名であることに果てしなく絶望してしまう(でも、諦めるには早いんだぜ?)。そういうがっかり感に苛まれながら、でも本当に自分は終わっているのかしら、とちょっとだけ運命に抵抗しようとしている主人公たちの姿を描いた短篇集が、山内マリコ『さみしくなったら名前を呼んで』だ。収録作の多くは、地方都市を舞台にしている。地方とそれ以外の世界の間に壁は厳然として存在し、勇気を出してそこから一歩を踏み出さない限りいつまでも「地元」からは脱せられない。自由が制限されている未成年者であれば、さらにしんどいだろう。
「走っても走ってもあたしまだ十四歳」のマユコは、世界とつながる窓が動画投稿サイトぐらいしかない場所で、ダンス以外に自分を解放できることがなくてとりあえず体を動かし続け、「たった一つのアクションで、世界が変わることを期待して」いる主人公だ。当然そんな魔法のような出来事は起きるはずもなく、「どうしろっての。ほんと、いつまで待てっての」と内心で焦りを募らせている。自分がまだ何者でもない(あるいは、なかった)、という思いをどこかで感じたことがある人は、この言葉に深く頷くはずだ。
山内の著書は「女による女のためのR−18文学賞」受賞作を含む短篇集『ここは退屈迎えに来て』と『アズミ・ハルコは行方不明』(ともに幻冬舎)がある。いずれも地方都市における若い女性の不安定な人生を描いた作品だが、後者はその要素が極限まで磨き上げられ、幻想的と言っていい内容になっている。小説を構成する部品はこの世に存在するものばかりなのに、それが集まるとなぜか現実を超越したものが出来てしまうのだ。本書の収録作にも、随所に目を瞠(みは)るほどの輝きがあり、まるで砂金探しのような楽しみがある。思わず復唱したくなるようなフレーズがたくさんあるのだ。私が心を持っていかれちゃったのは書き下ろし作品の一つ、「孤高のギャル小松さん」だ。わずか七ページの短い作品だが、すべての文章に胸をしめつけられるような可憐さが満ちており、にもかかわらず読後は主人公の逞(たくま)しい心が印象に残る。読み終えて、本を抱きしめたくなった。
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