書評
『現代の第一歌集―次代の群像』(ながらみ書房)
やっぱり、短歌にはかなわない
少し前から、家人が教科書の編纂委員をはじめた。傍で見ているが、大変な仕事である。まず、教材にすべき作品を見つけ出さなければならない。もちろん、編集部の方でも探すのだろうが、各委員が独力で収集する。そのためには、読まなくちゃならない。好きな本だけ読んでりゃいいというわけにはいかない。不得意な分野にも進出しなければならない。だから、家人は毎月、文芸雑誌まで読んでいた。そして「どうして、こういう雑誌に出る人って、人が読みたくならないようなものばかり毎月書いてるの?」と本質的な疑問をわたしに呈する。そんなことわたしにいわないでもらいたい。その件については、わたしはノーコメントである。それから、作品を選んだ後は、教材化の必要が出てくる。つまり、作品を解説したり、問題を作成しなきゃならない。現代詩などは家人の担当だ。そして、いきなりドアをノックして、現代詩の問題作をわたしの目の前に突きつけ、
「これの、このところって、どういう意味だと思う?」などとお訊ねになる。
いちおう、わたしも現代詩に関してはうるさい方なので、額に皺を寄せて熟考し、その結果、「うーん、ここは思いつきで書いたから、特に意味なんかないんじゃない?」などと返答し、呆(あき)れられてしまうのである。いや、わたしにはとても教科書編纂委員は務まりません。
そういうわけで、家人の周りにはあらゆるジャンルの本が積まれていて、時々、わたしもご相伴させていただく。現代俳句や現代短歌などぜんぜん読んでなかったことに気づくのはこういう時である。そして、やっぱり俳句と短歌は違うなあ、と実(まこと)に初歩的な感想を洩らしては笑われている。たとえば、俳句の個々の作品の善し悪しってのはわかるのだろうか。短歌ならわかると思うのだが。そこら辺のところ、誰か教えてください。
現代短歌といえば、寺山修司に岸上大作、馬場あき子、佐佐木幸綱に岡井隆、あの頃はよく読んだような気がしていたが、その後は道浦母都子、阿木津英、穂村弘、林あまり、俵万智。読んだ覚えがあるのはそれぐらいで、名前はもう出てこない。ひどいものだ。
まとめて読んでみると、面白い歌人がたくさんいるのにびっくりする(わたしが無知なだけなんだが)。てっとり早く探したい向きは『現代の第一歌集』(ながらみ書房)が便利。
「《ベイビー!逃げるんだ、げるんだ》逃げたって何も変わらぬような気もする」(上妻朱美)
こういうのは詩にならないし、俳句にもならないし、小説にもならない。
「林真理子のヌードのように容赦なく秋の没陽がわれを責めるよ」(藤原龍一郎)
さぞやつらいだろう。
「昨晩のことであります星月夜推進運動家よりの速達」(山崎郁子)
ぼくにも来ないかな。
「まだ何もしてゐないのに時代といふ牙が優しくわれ嚙み殺す」(萩原裕幸)
昔の現代詩はこういう具合に書けた。なぜ、いま書けないのか、二百字以内で答えよ。
「だしぬけにぼくが抱いても雨が降りはじめたときの顔をしている」(加藤治郎)
カッコよすぎるぞ。やはり、こういうのは詩にならないし、俳句にならない。小説にならなるか。耐えられんかもしれないが。
結論。コギャル語を使って短歌作るやつが絶対出てくると思う。
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