書評
『新潮選書 身体の文学史』(新潮社)
「こころ」か「からだ」か、それが問題だ
文学愛好者なら養老孟司の『身体の文学史』(新潮社)を是非とも読むべきである。なぜなら、目から鱗が何枚も落ちるからである。文学史というものが存在することは、以前から知っている。それが論理的に可能であるのかどうか、そこがよくわからない。そもそも歴史一般がなぜ可能なのか。私はいつも、歴史がなぜ可能か、という疑問を持ち続けて来た。
ただいま現在のことすら、理解がおぼつかない。しかるに、そのおぼつかない現在が、過去に変わると、ものごとがあんがい明確になるらしい。そこがどうも、いま一つ、納得がいかない。死んだ人間は、文句を言わない。それが歴史を可能にする要件かと思ったこともある。
『身体の文学史』はこのように始まる。同感である、としかいいようがない。しかし「文学史」を書く場合には、こういう考え方は排除される。ところで「こういう考え方」とは何だろうか。それは、誰もが考えるような疑問である。みんな、薄々は感じている疑問である。しかし、なかなか口に出してはいわない。なぜなら、この疑問を口に出すと、世の中に流通している常識や本や考え方が困ってしまうからである。
しかし、わたしは困らない。養老孟司も困らない。一般読者だって困らない。ただ困るのは「常識」によって商売をしている人たちである。
さて、これで『身体の文学史』を読むと「目から鱗が落ちる」理由がわかっていただけるであろう。
「常識」というものは、あらゆるところにはびこっている。「文学」や「文学史」なんてものはその代表である。
養老孟司は大岡昇平の名作『俘虜記』の一節を引用する。戦場における屍体の描写の部分である。大岡はそれに続いてこう書いている。
恐らく読者の大部分にとって、未知のこういう屍体の形状についてもっと詳細を記述すべきかもしれないが、今は止めておく。我々はこの種のものをよく見得るものではない。私は絶えず眼をそらし、眼を帰してはまたそらしながら見たと記憶する。こうして私がこの傷ましい観物を見た時間は合計三十秒を出ないであろう。描いて数百字を並べることも可能であるが、人間が三十秒しか眺め得ない映像について、読者に数分の注意力を強いるのは間違いではあるまいか。
ほんとうに、人間は屍体を「三十秒しか眺め得ない」のであろうか。中世において「九相詩絵巻」や「六道絵」の作者はじっと屍体を眺めてその絵を描いたのである。屍体を「三十秒しか眺め得な」くなったのは、社会が身体を遠ざけたからである。大岡昇平は世間の常識や倫理を語っているにすぎない。
……ここで著者はこの映像を三十秒以上眺め得るのは「人間ではない」と規定している。その規定はまさに『羅生門』を書いた芥川の人間規定である。それを私は世間と呼んだのである。そこでは世間は時間と空間によって切り取られた、特定の約束事のうえに成立しているものである。その世間が日本の「伝統」自体からもいかに切り離されているか、その意識もない。
『方丈記』は読んでも、九相詩絵巻は『見ない』のである。
これで、目から鱗が一枚ポロリと落ちる。養老孟司はこうやって、いかに「からだ」が不当に抑圧されてきたかを説明する。「文学」や「文学史」は、いやいい換えるなら「こころ」は、自ら意識せずにその「抑圧」に荷担してきたのである。ぜひとも、養老孟司に文芸時評を書いてもらいなさい。
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