選評
『太陽の塔』(新潮社)
日本ファンタジーノベル大賞(第15回)
大賞=森見登美彦「太陽の塔/ピレネーの城」、優秀賞=渡辺球「象の棲む街」/他の候補作=彼岡淳「ラビット審判」、小田紀章「影舞」/他の選考委員=荒俣宏、小谷真理、椎名誠、鈴木光司/主催=読売新聞東京本社・清水建設 後援=新潮社/発表=「小説新潮」二〇〇三年九月号
美点満載、文句なし
『ラビット審判』(彼岡淳)は、「少年司祭」という存在を考え出したところが魅力的だ。もう一つ、彼らが信奉する世界宗教、テペル教の司祭たちの中でとくに選ばれた者が持つ超能力もおもしろい。この超能力の持ち主は、だれでもよい、たとえば井上某氏の持ち物を媒介に、井上某氏の記憶、彼の思いを「映像」として受け取ることができるのだ。さて、発祥は紀元前という古い歴史を誇るこのテペル教の開祖は、ただ「聖人」とだけ呼ばれているのだが、〈この国には聖人のまとっていた衣服の切れ端が分けられて、鍵のかかる箱に入れられている……〉ので、超能力を持つ司祭がその聖遺物にもしも触ることができれば、開祖聖人の記憶や思いを映像として受け取ることができる道理になる。これをカトリックにたとえるなら、選ばれた者がキリストの聖衣に触るならば、キリストの記憶と思いを自分のものにできるという仕組み。こんな凄い設定でどのような物語が展開するのかと、わくわくしながら読みはじめたのだが、残念ながら物語そのものはまことに小さかった。設定に物語が押し潰されてしまった感がある。
『象の棲む街』(渡辺球)は、二十二世紀初頭のアナーキーな東京が舞台で、その荒れ果てた街で五人の男がドブ鼠のように生きる様子を、おもしろいエピソードを次々に繰り出しながら達者な筆で描いた作品である。作者は明示していないが、なにか途方もない大事変があって、日本国はアメリカと中国の管理下にあるらしい。じつはこういうところが困るのだ。なにがあってそうなったのかを知りたいのだが、その手がかりがない。日本管理に重要な意味を持つ象がじつは「不在」であったという物語の落としどころも月並みである。ただこの作者には「場面」をおもしろく作る才能がある。その才能を大切にしながら、もっと構造のしっかりした作品を書いてほしいとねがう。
評者が推したのは『影舞』(小田紀章)と『太陽の塔/ピレネーの城』(森見登美彦)の二作である。
『影舞』は地球規模の広大な物語で、その一端を記せば、大空を風に乗って漂う巨木があり、その巨木は、根を大海に垂らし、海水を真水に変えて吸い上げて、植物、動物、虫などを養い、それを数十万の人間が食料にして生きており、しかもこういった巨木が世界の空に三千も浮遊しているというのだから、すさまじいほどの構想力である。話はこの三千の巨木の一本に生まれ育った三人の若者(二人は芸術家、一人は精霊使い)を中心に展開して行くが、奔放にして古典的な物語に身をゆだねているうちに、思いがけなく切ない結末がやってくる。文章は華麗にして安定。ただ、思ったほど票が集まらなかったのは残念である。
『太陽の塔/ピレネーの城』は、美点満載の、文句なしの快作だった。なによりも文章が常に二重構造になっているのがすばらしい。では、それはいったいどういう仕掛けになっているのか。京都大学を〈休学中の五回生〉の「私」が主人公で語り手をかねているのだが、この「私」が女性にモテたくてたまらないのにまったくモテないので、客観的にはみじめで哀れな毎日を送っている。ところが「私」には、つまり主観としては、自分がモテないのは世の中がまちがっているように見えている。この客観と主観のズレが全編に絶え間なく愉快な諧謔(かいぎゃく)を作り出していて、読者はいつも主観と客観の、抱腹絶倒の二重唱を聞くことになる。これは生半可(なまはんか)な技術ではない。持って生まれた才能だろう。この才能がこれからもまっすぐに伸びて行くことを切に祈っている。
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