書評
『森が消えるとき』(徳間書店)
高田宏さんは『言葉の海へ』で大佛次郎賞、亀井勝一郎賞、『木に会う』で読売文学賞を受けたエッセイストである。
その高田さんの『森が消えるとき』を読んだ。最初のは北海道の天売(てうり)、焼尻(やぎしり)という島の森が、鱒の豊漁時代、〆粕をつくる燃料として、薪用に伐り倒されて裸になってしまった話である。それにつづいて、その昔、奈良、飛鳥の山々が都の造営のために禿山になり、琵琶湖沿岸の森にまで被害が及んでいった経過が語られる。
文体は平易に、叙述は淡々としていて、しかし深みを湛えている。
これらは人間の手が、鋸や斧で森を消滅させてしまった例だが、読み進めるにつれて人間の心がいよいよ森を抹殺しつつあることが明らかになってくる。後半におさめられている「駅のツバメ」がそれだ。ここでは、ツバメの糞で洋服が汚れたと怒鳴りこみ、巣の撤去を要求する女性が増えたので、駅ではとうとう糞よけの板をつけざるを得なくなり、その結果、たくさんあった巣がひとつになってしまった経過が提出されている。
そういうひと達、おそらくブランドもので着飾った女性にとっては、親鳥が餌をくわえて帰ってくると、ひな達が声を揃えてせがむ、親鳥とひなの交歓を楽しく眺める心が失われているのだろうと著者は嘆く。
こうした人々は、森があればそこに害虫が発生するから、森なんかない方が好ましいと考えるのではないだろうか。
しかし、公共施設や国はそういう世論にも従うべきだという「良識」がある限り、自然と人間の共生関係の維持は困難なのである。
でも高田さんはそうはいわずに、
と静かにこの話を結んでいる。高田さんの、こうした優しい目は「無名の人生」の項では、社会のなかで自分の果たすべき役割を黙々と情熱を持って果たしている人々に注がれている。
「森が消えるとき」とは、こうして読んでくると、人間の胸のなかに、他人や、植物や、生き物達への優しい目差しが消えた時なのだと、低い声で語りかけてくる本なのである。生活が便利になり、〝人権〟思想が発達して、人間ははたして本当に進歩したのだろうか。
その高田さんの『森が消えるとき』を読んだ。最初のは北海道の天売(てうり)、焼尻(やぎしり)という島の森が、鱒の豊漁時代、〆粕をつくる燃料として、薪用に伐り倒されて裸になってしまった話である。それにつづいて、その昔、奈良、飛鳥の山々が都の造営のために禿山になり、琵琶湖沿岸の森にまで被害が及んでいった経過が語られる。
文体は平易に、叙述は淡々としていて、しかし深みを湛えている。
これらは人間の手が、鋸や斧で森を消滅させてしまった例だが、読み進めるにつれて人間の心がいよいよ森を抹殺しつつあることが明らかになってくる。後半におさめられている「駅のツバメ」がそれだ。ここでは、ツバメの糞で洋服が汚れたと怒鳴りこみ、巣の撤去を要求する女性が増えたので、駅ではとうとう糞よけの板をつけざるを得なくなり、その結果、たくさんあった巣がひとつになってしまった経過が提出されている。
そういうひと達、おそらくブランドもので着飾った女性にとっては、親鳥が餌をくわえて帰ってくると、ひな達が声を揃えてせがむ、親鳥とひなの交歓を楽しく眺める心が失われているのだろうと著者は嘆く。
こうした人々は、森があればそこに害虫が発生するから、森なんかない方が好ましいと考えるのではないだろうか。
しかし、公共施設や国はそういう世論にも従うべきだという「良識」がある限り、自然と人間の共生関係の維持は困難なのである。
でも高田さんはそうはいわずに、
私の知るかぎりこの四半世紀(というのは著者がその駅を使うようになってから)、この町にツバメを憎む人はいなかった。
と静かにこの話を結んでいる。高田さんの、こうした優しい目は「無名の人生」の項では、社会のなかで自分の果たすべき役割を黙々と情熱を持って果たしている人々に注がれている。
「森が消えるとき」とは、こうして読んでくると、人間の胸のなかに、他人や、植物や、生き物達への優しい目差しが消えた時なのだと、低い声で語りかけてくる本なのである。生活が便利になり、〝人権〟思想が発達して、人間ははたして本当に進歩したのだろうか。
初出メディア

週刊テーミス(終刊) 1991年6月26日
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