書評

『書物の航海へ いまを生きるための古典』(岩波書店)

  • 2026/05/31
書物の航海へ いまを生きるための古典 / 石井 洋二郎
書物の航海へ いまを生きるための古典
  • 著者:石井 洋二郎
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(400ページ)
  • 発売日:2026-02-27
  • ISBN-10:4000617435
  • ISBN-13:978-4000617437
内容紹介:
言葉の河が流れ、書物の海へと注ぎ込む。茫洋と広がる大海原には、世界と人間の本質について何が書き残され、その言葉が今なお必要とされるのはなぜなのか?「驚く、知る、関わる、戦う、愛す… もっと読む
言葉の河が流れ、書物の海へと注ぎ込む。茫洋と広がる大海原には、世界と人間の本質について何が書き残され、その言葉が今なお必要とされるのはなぜなのか?「驚く、知る、関わる、戦う、愛する、生きる」という人間の普遍的な営みを軸に、博覧強記の読書家が、プラトン、パスカル、モンテーニュ、ニーチェ、アーレント等々の厖大な古今の名著を巡り、いつもとは異なる仕方で世界を見つめ直そうと船出する。読書の悦び、驚きとともに、新たな地平を開く知の航海記。

目次
序章 言葉の河 書物の海
第一章 世界という不思議―「驚く」という経験―
第二章 学問の来歴の変遷―「知る」ことへの欲望―
第三章 個人と共同体―「関わる」ことの困難―
第四章 戦争と平和のはざまで―「戦う」という宿命―
第五章 愛と性の深淵―「愛する」ことの神秘―
第六章 死にゆくものとしての人間―「生きる」という奇跡―
終章 航海の終わりに

自己の白紙還元…読み返す意義がここに

アントワーヌ・コンパニョンの『文学は割に合う!』という本を読んでいて「応用文学科」という新学科を思いついた。「応用数学科」とか「応用物理学科」という学科があるのなら「応用文学科」があってもいいのではないか? コンパニョンによると、文学的教養を身につけた者とそうでない者とが、文学以外の分野で競争した場合、最終的には前者の方が優位のうちにゴールインすることが多いので、「文学は割に合う」のだそうだ。

ならば文学(哲学・社会科学を含めての広い意味)の専門研究ではなく、専門技術を束ねるために文学、とくに古典の応用技術を学ぶ学科があってもいいではないかと思ったのだ。その場合、私がヴァーチャル新学科の教科書として採用したいと思ったのが本書である。

私が語りたかったのは(中略)一般読者との共有可能性に向けて広く開かれた、どこまでも平易で慎ましい(中略)<ハ長調>の言葉である。それを支えるのはただ、本を読むことは愉(たの)しいという単純素朴な思いにほかならない。

著者は異端詩人ロートレアモンの世界的研究者で、難解をもってなるピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』の翻訳者としても知られる。それでいて東京大学の副学長として教養課程の改革に取り組み、『大学の使命を問う』という著作を世に問うている。

しかし、私が「応用文学科」の学生たちに強制的に本書を読ませたいと感じたのはこうした専門性と事務能力を兼ね備えた著者の履歴ゆえではなく、本書に挙げられた古典の定義ゆえである。「そこ(古典)に宿っているのは真理それ自体ではなく、人類が昔から変わることなく抱いてきた真理への憧憬(しょうけい)であり、飽くことなく続けてきた探求のプロセスである。さまざまな問いをめぐって、決定的な答えを見出(みいだ)せぬままに過去の人々が悩み、戸惑い、迷走し、試行錯誤しながら考え続けてきた過程そのものが記されている書物、真理にたどり着こうとしてなおたどり着くことができず、当為の世界で苦闘し続けた人々のなまなましい息遣いが洩(も)れ出してくるような書物、それが古典である」

なるほど、これを私なりに言い換えれば、古典とは答え(真理)の見つかる本ではなく、問いのプロセスが見つかる本なのである。「だからこそ、それは『いまを生きる』私たちにとって必要不可欠なのだ」

では、いったいどのような古典が取り上げられ、配列されているのだろうか? キーワードは「驚く」「知る」「関わる」「戦う」「愛する」「生きる」の六つの動詞で、これを中心に六章が構成されている。

このうち最重要なのは「驚く」という動詞である。なぜなら、プラトンの『テアイテトス』にあるように根源的な問いは、普通の人が驚かないことに驚きを発見することから始まるからだ。「驚異の情」を抱くことこそが「求知=哲学の原点」なのだ。ショーペンハウアーに従えば、動物と人間を隔てるのは「存在という、これ以上ないほど日常的なことがらに驚き、その自明性を疑うことができる」「人間だけの能力」である。

この特有の能力を持つ人間は「知らないことを知りたいという純粋な欲望に駆り立てられた」が、しかし、やがて知るには方法があることに気が付き、今度はその方法を模索する。

中世の専門科目である神学・法学・医学に栄養を供給する「腐植土」としての一般教養の重要さを指摘したフランシス・ベーコンしかり、「まず教養=トピカ(真偽の定かでないさまざまな論点を発見する技法)を学び、しかるのちに専門=クリティカ(賢慮に基いて物事の真偽を判断する技法)を学ぶのがよい」とするヴィーコしかり、「教育において重要なのは個別の現象を説明する知識の教授や習得ではなく、知性を適切に用いるための普遍的な能力、すなわち『知識の哲学』の涵養(かんよう)である」とするJ・S・ミルしかり。この第二章「学問の来歴と変遷」は大学教養部の改革に心血を注いだ著者だけに説得力がある。

以下、「個人と共同体」「戦争と平和のはざまで」「愛と性の深淵(しんえん)」「死にゆくものとしての人間」――という重要なテーマが取り上げられ、それぞれについて論じた古典が引用されて解釈されるが、終章「航海の終わりに」で取り上げられているロラン・バルトとミシェル・フーコーの遺言に近い思索は、これらすべての章を束ねる扇の要となっているので、これを引用せずにはいられない。

すでに知ってしまったことを忘れて自己を白紙還元(タブラ・ラーサ)すること、いつもとは異なる仕方で世界に向けて目を開くこと――それはまちがいなく、まだ知らなかったことを知ることよりも遥(はる)かに困難な作業である。バルトはこれを『叡智(えいち)』と呼び、フーコーはそこに『哲学』の本質を見出した。

古典を読んだり、読み返したりすることの意義はまさにここにある。

最良の古典案内と言っていい。
書物の航海へ いまを生きるための古典 / 石井 洋二郎
書物の航海へ いまを生きるための古典
  • 著者:石井 洋二郎
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(400ページ)
  • 発売日:2026-02-27
  • ISBN-10:4000617435
  • ISBN-13:978-4000617437
内容紹介:
言葉の河が流れ、書物の海へと注ぎ込む。茫洋と広がる大海原には、世界と人間の本質について何が書き残され、その言葉が今なお必要とされるのはなぜなのか?「驚く、知る、関わる、戦う、愛す… もっと読む
言葉の河が流れ、書物の海へと注ぎ込む。茫洋と広がる大海原には、世界と人間の本質について何が書き残され、その言葉が今なお必要とされるのはなぜなのか?「驚く、知る、関わる、戦う、愛する、生きる」という人間の普遍的な営みを軸に、博覧強記の読書家が、プラトン、パスカル、モンテーニュ、ニーチェ、アーレント等々の厖大な古今の名著を巡り、いつもとは異なる仕方で世界を見つめ直そうと船出する。読書の悦び、驚きとともに、新たな地平を開く知の航海記。

目次
序章 言葉の河 書物の海
第一章 世界という不思議―「驚く」という経験―
第二章 学問の来歴の変遷―「知る」ことへの欲望―
第三章 個人と共同体―「関わる」ことの困難―
第四章 戦争と平和のはざまで―「戦う」という宿命―
第五章 愛と性の深淵―「愛する」ことの神秘―
第六章 死にゆくものとしての人間―「生きる」という奇跡―
終章 航海の終わりに

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2026年5月30日

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