書評
『メシュガー』(吉夏社)
イディッシュで伝える英知ある言葉
ポーランドの首都ワルシャワは第二次世界大戦前、ヨーロッパ最大のゲットーをもち、五十万にちかいユダヤ人がいた。そこでは「民衆ユダヤ語」と蔑視されたイディッシュが話され、アイザック・シンガーもポーランド・ユダヤの一人であり、イディッシュで書くことを始めた。ナチス・ドイツの侵攻に先だちアメリカに逃れ、アメリカの作家となってからも、またノーベル賞作家となってのちにも、少数者の言葉を捨てなかった。タイトルの「メシュガー」はイディッシュで「気が狂った」「バカな」といった意味。物語は第二次大戦が終わって七年後のニューヨーク。アメリカに逃れたユダヤ人の大半はニューヨークに住みつき、さながらワルシャワ・ゲットーが引き移ったかのようだ。となれば小説の冒頭にあるようなことが生じる。
「たびたび起きたことだが、てっきりヒトラーの収容所で亡くなったと思っていた人物が実は生きていて、元気に姿を現わすのだった」
ほんの一行で、すでにシンガーの世界に入っている。「ヒトラーの収容所」とあって、ナチスの苛烈なホロコースト(ユダヤ人虐殺)が物語の底流にある。「元気な姿」は生きのびたのちの仮の姿であって、さんざん死神にいたぶられた者には、もはや仮の姿しかないのである。
シンガーの小説に出てくる男も女も、何という語り手だろう。ワルシャワの暮らし。その後にみまった地獄。おおかたが両親、兄弟姉妹、子ども、親類縁者、ことごとくを失った。出来事を語ろうとすると、記憶が循環し始める。そして終わらせるのを恐れるかのように、もとの出発点にもどってくる。その結果のとめどないおしゃべり。
「記憶って何かしら? ほかのあらゆるものと同じね――謎よ」
シンガーが愛惜こめて語らせる人物が、多少とも変人、奇人を思わせるのは、死と親しみすぎると、少しずつ土台の沈んでいく建物のように、人間性が傾いてくるからだ。誰もがみずからの人生哲学をもち、世の寸法に合わせられない。だからこそかもしれないが、その口からは英知ある言葉がこぼれ出る。シンガーの小説のとりわけたのしいところだ。知恵とお道化(どけ)が微妙な比率でまじり合った英知である。ホラと真理がトランプの表と裏になった言葉。
「私にとっては世界全体が精神病院だ」
「そんなことを言うなんて、キスせずにはいられないわ!」
ここではミリアムの名で出てくる。身一つで、まさしくその「身」を楯にして死の暴虐をしのいできた。作者自身とおぼしい語り手は女の前で思案し、たじろぎ、自省しながら、やはりミリアムに向けて決断する。ミリアムがいるかぎり、人生にまだ何らかの意味があるからだ。
『メシュガー』は実質的にシンガーの最後の長篇にあたる。色こくポーランド・ユダヤの文化をやどした世のはずれ者たちを、ほとんど死滅した言葉で書きのこしておく。作者にはそんな目論見(もくろみ)があったのではあるまいか。正統派ユダヤ教の教義、そこから分化した運命感やこの世の見方が、ユダヤ的比喩に託して語られていく。そこにバラまかれたイディッシュの切れはしが、伝えようのないものを伝えようとする。その意図をくみとって、丁寧に訳されている。
終わりがひとしお印象深い。「もし子供ができたら」とミリアムが言ったとき、語り手は答えた。子供など生まれない。きみとぼく、われわれは「一つの世代の最後の者たち」なんだから。
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