書評
『美しい痕跡 手書きへの讃歌』(みすず書房)
人を思い、時間かけ「私」を宿す
どこかに長期滞在する時、真っ先に気にするのが「プリントアウトすることができるか」である。編集者からデータで送られてきたゲラ刷りなどを確認する際、出力して手書きで書き込まなければ気が済まない。データ上で直して、と言われても、紙に印字し、手で書きこむ。元の原稿はパソコンで打ち込んでいるのに、なぜ仕上げに手書きを欲するのだろう。イタリアを代表するカリグラファーによる「手で文字を書くこと」を巡る考察に、その理由がいくつも書かれていた。「書き文字には私の思考が映る。いやむしろ、書き文字は私の思考そのものと言える」。紙とは、私たちの「思考のさすらい」を語るものなのである。
「ワープロが出現するまで、文字を書くのは身体を使う活動だった」。ペンを握り、音を出し、痕跡を残す。人が初めて文字を書こうとする時、自分の名前を残そうとする。たとえ字を習得していなくても、「自分を表す『絵』」を書く。それは、「ここに私はいる! と宣言するため」にあるのだ。
これを使えば、書く必要がなくなります、と打ち出されるアイテムの主な効能は時間の短縮だが、そもそも「時間がかかるというのは、不利益であるという意味ではない」はず。単にテクノロジーを否定するのではなく、それを手にした時に、一体、何が失われるのかを自問する必要がある。
長らくしまっていた手書きの手紙が見つかった経験は誰しもある。あるいは「思ってもみないときに届く手書きの文章」、それは「時間をかけた旅」なのだ。短絡的であることや表層的であることさえも、便利なんだからそれでいいでしょ、と変換されて受容する社会にあって、わざわざ書く意味はいくつも残っている。
人と近くで接触してはならない、という日々が続く。非接触でこなす可能性が拡張していく現在だが、紙に触れて、文字を残して、誰かに届けるという所作の強度を思い知った。
朝日新聞 2020年05月30日
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