書評
『バン・マリーへの手紙』(岩波書店)
てっきり西洋人女性の名前かと思った。
バン・マリーはフランス語で、日本語に直すと湯煎という。調理法であると同時に、宴会などで料理を保温する器具を指すこともある。焼く、妙める、蒸す、茄でるなどに比べて、バン・マリーは直接火にかけるのではなく、間接的に加熱する方法である。あるいは出来上がった料理を温めておき、いつでも食用できるような状態を保ち続ける。
本書では「バン・マリー」はむろん隠喩として語られている。著者のことばを借りれば、重度の視野狭窄に見舞われつつあるいま、湯煎のような中間地帯を設け、複眼的な思考が求められる。何事につけ白黒をつけるのではなく、むしろ「直接的なもの言い、直接的なおこないに疑って」かかる。社会全体を覆う情緒や流行から距離を置くことで、精神の自由をつねに一定の高度に保ち続けることができる。
「湯煎」の思想を精神生活に応用するとき、何かをするというより、むしろ心構えの問題である。五千年まえの氷男の智恵、忘れられた昭和の小説、古い新聞記事、焼き芋、五十年前のサンドイッチ。どのような些細なことでも、「湯煎」を通過させるとたちまち核分裂を起こし、興味深い事象が次々と見えてくる。
「湯煎」のもう一つの効用は、時系列的な考え方から自由になることだ。物が使い捨て、言論も思想も芸術も使い捨ての時代では、すべてが猛烈な勢いで消費され、消耗される。捨てられたのは役に立たないからではない。新しいものが無条件に古いものより勝ると信じられているからだ。しかし、著者の湯煎にかけると、新旧のあいだに必ずしも優劣関係が存在しないことに気づく。じっさい、本書を読むと、誰もが昭和時代の本の内容に驚き、六十五年も前に刊行された鳥類関係の書籍から引用されたことばに心が打たれるであろう。小説にしても、音楽にしても、絵画にしても、新しいほど価値があるとは限らない。忘れ去られたことばや考え方のなかに、現代人に勝る知見や智恵がある。そんなことが豊富な実例によって示されている。
随筆には告白型、説教型、教養型、雑学型などがあるが、いずれの場合も筆者の見解が文明批評として示されている。本書もその点では同じだ。ただ、著者の意見が湯煎を通過しているから、説教臭さも押しつけがましさもまったくない。魔法のように話柄を自在に変えていく文章は知ら知らず知らずのうちに読む者の心をとらえ、行間のメッセージは読者の潜在意識に働きかけてくる。
堀江敏幸の場合、中味もさることながら、やはり文章を読むのが楽しい。流れるような語り口、意表をつく表現、絶妙なレトリック、次々と繰り出す文章芸には舌を巻くばかりだ。しかも、文章のリズムは内容にぴったりと釣り合っている、この作家は文章の内容に合わせて、文体を微妙に変えることに長けている。
「魔女のことば」や「月が出ていた」は随想というより、まるで短編小説のような筆法である。「ふたりの聖者」は上質な文芸批評で、「ふたりのブイヨン」はいかにも学究らしい文章である。専門の話でも、衒学的ではなく、あたかも茶飲み話のように語られている。「ニューファンドランド島へ」はフランス語の文法を種にしているが、仏語の知識がなくてもわかるように、柔和な筆致で書かれている。
読み終わって、もはや随筆を書く意欲が完全に喪失してしまった。
【この書評が収録されている書籍】
バン・マリーはフランス語で、日本語に直すと湯煎という。調理法であると同時に、宴会などで料理を保温する器具を指すこともある。焼く、妙める、蒸す、茄でるなどに比べて、バン・マリーは直接火にかけるのではなく、間接的に加熱する方法である。あるいは出来上がった料理を温めておき、いつでも食用できるような状態を保ち続ける。
本書では「バン・マリー」はむろん隠喩として語られている。著者のことばを借りれば、重度の視野狭窄に見舞われつつあるいま、湯煎のような中間地帯を設け、複眼的な思考が求められる。何事につけ白黒をつけるのではなく、むしろ「直接的なもの言い、直接的なおこないに疑って」かかる。社会全体を覆う情緒や流行から距離を置くことで、精神の自由をつねに一定の高度に保ち続けることができる。
「湯煎」の思想を精神生活に応用するとき、何かをするというより、むしろ心構えの問題である。五千年まえの氷男の智恵、忘れられた昭和の小説、古い新聞記事、焼き芋、五十年前のサンドイッチ。どのような些細なことでも、「湯煎」を通過させるとたちまち核分裂を起こし、興味深い事象が次々と見えてくる。
「湯煎」のもう一つの効用は、時系列的な考え方から自由になることだ。物が使い捨て、言論も思想も芸術も使い捨ての時代では、すべてが猛烈な勢いで消費され、消耗される。捨てられたのは役に立たないからではない。新しいものが無条件に古いものより勝ると信じられているからだ。しかし、著者の湯煎にかけると、新旧のあいだに必ずしも優劣関係が存在しないことに気づく。じっさい、本書を読むと、誰もが昭和時代の本の内容に驚き、六十五年も前に刊行された鳥類関係の書籍から引用されたことばに心が打たれるであろう。小説にしても、音楽にしても、絵画にしても、新しいほど価値があるとは限らない。忘れ去られたことばや考え方のなかに、現代人に勝る知見や智恵がある。そんなことが豊富な実例によって示されている。
随筆には告白型、説教型、教養型、雑学型などがあるが、いずれの場合も筆者の見解が文明批評として示されている。本書もその点では同じだ。ただ、著者の意見が湯煎を通過しているから、説教臭さも押しつけがましさもまったくない。魔法のように話柄を自在に変えていく文章は知ら知らず知らずのうちに読む者の心をとらえ、行間のメッセージは読者の潜在意識に働きかけてくる。
堀江敏幸の場合、中味もさることながら、やはり文章を読むのが楽しい。流れるような語り口、意表をつく表現、絶妙なレトリック、次々と繰り出す文章芸には舌を巻くばかりだ。しかも、文章のリズムは内容にぴったりと釣り合っている、この作家は文章の内容に合わせて、文体を微妙に変えることに長けている。
「魔女のことば」や「月が出ていた」は随想というより、まるで短編小説のような筆法である。「ふたりの聖者」は上質な文芸批評で、「ふたりのブイヨン」はいかにも学究らしい文章である。専門の話でも、衒学的ではなく、あたかも茶飲み話のように語られている。「ニューファンドランド島へ」はフランス語の文法を種にしているが、仏語の知識がなくてもわかるように、柔和な筆致で書かれている。
読み終わって、もはや随筆を書く意欲が完全に喪失してしまった。
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