書評
『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』(河出書房新社)
パリの空の下、時はやさしく流れた
書店の外観の絵が、表紙にはかかれている。あかるい緑を基調にした、おおらかで風通しのいい絵だ。邦訳版のこの表紙(装画は100%ORANGE)を見ただけで、いい本だとわかった。手ざわりも厚みも、まさにいい本のそれだ。読み終っても大事にして、ずっと本棚に置いておく本になるだろう、と、読み始める前にわかっていた。こういうことは、たまにだがある。閉じた状態の本から、中身のよさが、気配となって滲みでているということが。これは、パリに実在する書店「シェイクスピア&カンパニー」をめぐる回想録で、著者(一九七一年生れ、カナダ人の男性ジャーナリスト)が、二十代の終りにほとんど一文無しの状態で、立ち寄って住み込み、似たような境遇の(お金がない、他に行くところがない、いつか物を書きたいと思っている)人々――境遇は似ていても、年齢も国籍もさまざまな、それぞれに一風変った人々――と、共同生活をしたときの話だ。
この店にはこういうモットーがある。
「見知らぬ人に冷たくするな 変装した天使かもしれないから」
共産主義を信奉するアメリカ人にして、文学を熱愛する頑固でユニークな老人でもある経営者ジョージの方針で、この書店にはベッドが幾つも用意されており、頼めば、ほとんど誰でも泊めてもらえる。一九六四年からというから、五十年近い歴史を持つこの英語書籍の専門店には、かつてヘンリー・ミラーやアナイス・ニン、サミュエル・ベケットやアレン・ギンズバーグが出入りしていた。さらに歴史をさかのぼれば、おなじ名前のべつな店(こちらは一九四一年に閉店。経営者同士に親交もあり、片方の死後、現在の店が名前――と、おそらくそのスピリット――をもらった)には、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ジェイムズ・ジョイス、エズラ・パウンドなど、錚々たる顔ぶれの作家たちがつどった。そういうことがどのガイドブックにも載っているので、訪れる観光客はあとをたたない。無料のベッドを求めてくるバックパッカーも。その混沌は、想像するにあまりある。
とはいえ建物は老朽化し、ゴキブリが砕け散っていたり食べ物にカビが生えていたりするので、実際に長期で滞在するのはお金や行き場所のない、あまり成功していない人々に限られてくる。なんというか、しょぼいのだ。著者のジェレミー・マーサー自身、母国カナダを逃げだしてきた身で、生活するためにはちょっとした違法行為も辞さないアウトローだし、一週間の予定で五年も住みついている老詩人とか、「あたしはパリでちょっと楽しみたかっただけよ」と言うバイセクシャルの女性とか、おそろしく真面目で、英語およびフランス語の勉強のために(どちらの言語で思考する日か忘れないために)、毎日手の甲にFかEの文字を書きこんでいるウイグル人とか、登場人物はみんな奇矯で屈託がある。そして、そこはとても読みごたえがある。著者は元新聞記者であり、その職業にふさわしい冷静さで一人ずつを観察している。みんないい奴だった的な感傷は排して、店主ジョージをはじめとする一筋縄ではいかない人々の陰翳を、くっきりと浮き彫りにする。
こういう場所では、石鹸の泡くらい容易に、恋や友情が発生する。嫉妬や敵意も生れるし、喧嘩や盗難も起きる。やってきては笑ったり泣いたりして去っていく人々、残る人々。しかも場所はパリ。彼らにとって異国のこの街は、出来事を彩り、ときにきらめかせ、お祭みたいな高揚をすらもたらす。かつてヘミングウェイが「移動祝祭日」と評した街は、時と共に変化しながら、それでも変らないある種の包容力を持ち、セーヌが流れカフェがならび、彼らを許容するのだ。
いわゆる「深いつきあい」ではない人たちのあいだにだけ生れる信頼感というものがある。本来の人生とは切り離された場所にだけある人生というものも。それは刹那性ということや、身一つの本質ということと密接につながっていて、比類なく美しかったり幸福だったりする奇跡のような瞬間をつくりだす。この本のあちこちにその発生は写しとられているのだが、優れていると思うのは、著者の注意深い手つきによって、その向うに現実が、つねに透けて見えるところだ。「TIME WAS SOFT THERE」というこの本の原題に、それは顕著に表れている。直訳すれば「そこでは時間はやさしく流れた」となるこの言葉は、ある種の刑期を指す言葉だという。凶悪犯の入る厳重な施設での懲役を「ハード・タイム」と呼ぶのに対し、「犯罪者の更生を目的とする」施設での、「ウェイトトレーニング・ルームもあり、高校レベルの授業や室内ホッケー大会も実施される」ような懲役を、「ソフト・タイム」と呼ぶのだそうだ。
シニカルな、けれどやさしい、いいタイトルだと思う。
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