書評
『ボガートの顔をもつ男』(文藝春秋)
あなたにそっくり
手術が終わって患者の顔から整形医が包帯をとると、出てきた顔はハンフリー・ボガートそっくりである。それから男は、「サム・マーロウ、私立探偵」の看板を事務所に掲げた。スローガンは「私は眠らない」。その日のうちに、一度も下着を着たことがないという、ぞくぞくするような金髪娘の秘書が入り、エルケ・ソマーそっくりの美人依頼人の電話に応じて出かけると、案の定、殺し屋たちの拳銃が火を噴いて、その殺し屋が一人サム・マーロウのルーガーの血祭りに上がる。並の腕ではない。サムのルーガーが火を噴くと、最初の一発は心臓に命中し、二発目は最初の弾に命中するのである。
そこヘジーン・ティアニーそっくりのギリシャ娘が現れ、『マルタの鷹』そっくりの筋書きで「アレクサンドロス大王の二つの眼」という大サファイアを追って悪党どもが暗躍する。むろんサム・スペードそっくりにサファイアの秘宝を追うボガートそっくりのサム・マーロウのルーガーが火を噴けば、その度に殺し屋はバタバタと斃れ、サムの唇がひくりと動けば、可愛い子ちゃんのスカートが腿までまくれる。しかも、サムはルーガーの腕以上に四〇年代映画の通なので、すべての場面が往年の名画の名場面できまるのだ。
つまりは、ハメットとチャンドラーのハードボイルド探偵小説と、その映画化作品のパロディーを詰めこんだ絶妙のエンタテインメントである。正確には、二十八章あるうちの最終章までは、いかなる現実もまるで介入してこない。
言い忘れたがサムの最初の依頼人は、マザーという名の身の丈七フィートもある大女、これが失踪したチビの亭主を探している。チビのニッキーはすぐに事務所の屋根裏で見つかった。マザーの「愛情」にヘトヘトになり、牡蠣の缶詰とビタミン剤をしこたま抱えて休養中の身なのだ。彼は暗い屋根裏部屋でひたすら牡蠣を食いまくりながら、一体何を夢見ていたのか、彼と「ボガートの顔をもつ男」との間にはいかなる関係があるのかないのか。それは最終章まで解き明されない。
ところで評者はついうっかり最後のページまで読んでしまったので、ここでご忠告申し上げるが、人生軽く生きるのが身上の「あなた」なればこそ、ネクラい現実の逆流してくるこの最終章だけは、断じて読まれない方がいい。「ボガートの顔」の向こうに世にもむごたらしいなにものかを見て、二度と立ち上がれないほどたたきのめされるのは必定だからだ。
【この書評が収録されている書籍】
朝日新聞 1983年5月23日
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