「明治の徒花」を覆す、新鮮で懸命な文化史
べーんと腹にひびく太棹(ふとざお)、肩衣(かたぎぬ)に袴の娘が「今ごろは半七さん……」とさわりを語ると、「待ってました」と声がかかる。志賀直哉、秋田雨雀、竹久夢二らがイカれ、白秋、杢太郎が詩の題材とした娘義太夫とはなにか。青年たちは「どうする連」を結成して、小屋がはねたあとは娘義太夫の乗った人力車を取り囲んで、下駄を鳴らし、自宅までついていった。近代文芸史をひもとくとき気になる存在、娘義太夫についての最新の概説書である。といっても、この前出た本が昭和二十八年、岡田道一『明治大正女義太夫盛観物語』というのだからじつに四十五年ぶり。こちらは同時代の「追っかけ」による評判記の趣がある。本書は、大学の外国語学科を出たものの道を定めかね、二十年間、義太夫協会につとめた著者による。この成立事情が面白い。そしてインタビューをするにも、資料を集めるにも絶好のポジションをよく活かした。
著者は「明治の徒花(あだばな)」とされる娘義太夫(最近は女流義太夫、略して女義(じょぎ)という)を、江戸にまでさかのぼって探る。綾之助、京枝、東玉、小土佐、小清、呂昇らスターの芸質と略伝もある。綾之助登場の年代の確定、「どうする連」が騒いだのは明治三十年代の一時期にすぎなかったこと、明治三十三年、外山正一文相が学生の義太夫出入りを禁じたという定説の無根拠など、新発見も多い。
何より、娘義太夫に身を寄せているところがいい。書生を堕落させる、というのはお門ちがいの責任転嫁ではないか。「追っかけ」られて迷惑ではなかったか。むしろ、女の職業が少なかった時代のキャリアウーマンではなかろうか。指摘の一つ一つが新鮮だ。
たしかに「さわりで伸び上がってヨヨと首を振る。その拍子に髪に挿した簪(かんざし)がパタリと落ちる」パフォーマンスが受けたため、娘義太夫=「容姿本位で芸は二の次」「色気が売り物、品行悪し」の評判が定着した。竹本土佐広は「歌い型・簪落とし型」を受けつがないことによって初の人間国宝となった。しかし、男が作り出した義太夫に「歌い型・簪落とし型」という新しいジャンルを誕生させたともいえまいか。
美空ひばり、山口百恵、安室奈美恵まで持ち出しての、これは懸命な文化史である。