書評

『ビザンツ文人伝:言葉で戦った男たちの矜持と憂愁』(白水社)

  • 2025/11/04
ビザンツ文人伝:言葉で戦った男たちの矜持と憂愁 / 根津 由喜夫
ビザンツ文人伝:言葉で戦った男たちの矜持と憂愁
  • 著者:根津 由喜夫
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(594ページ)
  • 発売日:2025-09-17
  • ISBN-10:4560091994
  • ISBN-13:978-4560091999
内容紹介:
尋常ならざる知性の持ち主たちの奮闘記演説と文章のプロフェッショナルたちの波瀾の生涯世俗の支配層が武人とほぼ同義の西欧中世と違い、ビザンツ帝国では文官・文人が存在感を示した。彼ら… もっと読む
尋常ならざる知性の持ち主たちの奮闘記
演説と文章のプロフェッショナルたちの波瀾の生涯
世俗の支配層が武人とほぼ同義の西欧中世と違い、ビザンツ帝国では文官・文人が存在感を示した。彼らは、美辞麗句ばかりで中味が空っぽとか、言っていることと腹のなかがまるで違う二枚舌だとか、同時代の西欧人から現代の研究者に至るまで、ことあるごとに非難を浴びせられ、「ビザンツ的」と言えば、権謀術数や虚飾や空虚な議論の代名詞のようなイメージが出来上がってしまっている。だが、それはプロの修辞家として、依頼された仕事を誠実に果たした結果であり、個人としての著作や生き方には、また別の顔があった。
本書は、八世紀のコンスタンティノープル総主教ゲルマノス一世から帝国滅亡の十五世紀のプレトンまで十四人を取り上げ、マケドニア朝期の反骨の聖職者アレタス、たび重なる政変を泳ぎ切りつつ膨大な著作をあらわしたプセルロスら、毀誉褒貶入り乱れた異才たちの人生を活写する。そして、固定観念から少し離れて、偏見なしに実際のビザンツ知識人の姿に触れ、言葉の力を武器に戦い抜いた生身の彼らの、暮らしと思想をできるだけ彼らが生きた時代のなかで浮き彫りにすることをめざしている。


【目次】
地図
1 コンスタンティノープル/2 十一世紀半ばのビザンツ帝国
はじめに
1 先駆的な総主教たち
一 ゲルマノス一世――イコノクラスムに抗した聖人総主教
二 ヨハネス七世グラマティコス――総主教は妖術使い
三 フォティオス―― 「マケドニア朝ルネサンス」の開幕
2 マケドニア朝ルネサンス期の首都の文人
一 カイサレイア府主教アレタス――愛書家教会人の武闘派人生
二 「逸名の教授」――市井の文人の不穏な日常
3 「ビザンツの平和」の光と影
一 ヨハネス・ゲオメトレス―― 「再征服」時代の桂冠詩人
二 クリストフォロス・ミュティレナイオス――都会の片隅から見える風景
4 ミカエル・プセルロス――「哲学者の統領」の華麗なる宮廷遊泳術
5 行けば容易に戻れぬテサロニケ
一 テオドロス・スミュルナイオス――冥界のグルメ弁護人
二 テサロニケ府主教エウスタティオス――片意地な学者主教は愛されない
6 ニケタス・コニアテス――帝国衰亡の目撃証人
7 ニケフォロス・ブレミュデス――ニカイア帝国の知恵袋
8 テオドロス・メトキテス――哲人宰相の宿す闇
9 ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン――千年帝国最後の奇才
別表 ゲミストス・プレトン『法律総論』目次
地図
3 十二世紀半ばのコムネノス朝期ビザンツ帝国/4 テサロニケ市街/5 第三回十字軍、フリードリヒ一世の行軍ルート/6 十三世紀のニカイア帝国周辺部/7 十四世紀半ばのパライオロゴス朝期ビザンツ帝国と周辺
あとがき

図版一覧
文献目録

地名索引
人名索引

古典古代の精神息づく人間模様の機微

どんなに正確にバットをふっても、球から大きく離れていたら様にならない。同様に、問いかけが適切でなければ、筋の通った応答でも味気ない。五世紀後半に解体した西ローマ帝国にならって、その後千年もつづいた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はいかにして衰退したか、それを問うのはいかがなものだろうか。領土が縮小し国力が弱体化しても、「なぜ存続できたのか」こそふさわしい問いかけではないだろうか(ジョナサン・ハリス『ビザンツ帝国 生存戦略の一千年』参照)。

古代帝国の衰弱にともない、西欧では知識人の多くは教会関係者に偏っていた感がある。だが、ビザンツ帝国の君臨する東欧では世俗の文人層が分厚かったらしい。しかも、伝統ある古典の教養にふれながら、歴史、詩歌、書簡などを語るのだ。

これらの教養人は、皇帝および周辺の権力者に仕えながら、しばしば賛辞を声高らかに述べて式典をもりあげる文人たちであった。絶大な権力者や武勲で飾られた将軍のごとく同時代の史書でとりあげられることはないが、脇役として喜怒哀楽にあふれる生身の人間がいた。本書はこれら等身大の文人たちを追う評伝であり、思いがけないビザンツ史の裏面が浮き上がってくる。

九世紀半ば、俗人のフォティオスがコンスタンティノープル総主教の地位に就いた。権謀術数の世界に放り込まれた学者肌の総主教がどれほど当惑したか、想像にかたくない。圧倒的な学識にあふれても、敵意ある教会人には異教かぶれにすぎなかった。しかも、教会会議で教皇ニコラウス一世を非難したことから、ローマ教会との対立が決定的になり、やがて解任される。十年にわたる捲土(けんど)重来の日々が過ぎ、総主教の座に復帰するが、なにぶんにも老齢であった。

十一世紀前半、ビザンツ帝国は、空前の平和と繁栄を迎えようとしていた。そのころ古典文学の深い教養をもち、多種多様な文章をやりとりしながら交流する知的エリート集団が幅をきかせていた。クリストフォロスなる詩人は、さまざまな韻律を駆使して、多様な題材の世俗詩を残している。盛大なパレードの沿道は見物人の人波で埋めつくされ、喧騒(けんそう)のなかで目撃した出来事や人物などが描き出される。

ビザンツの文人を語るとすれば、一〇一八年生まれの多芸多才なプセルロスにふれないわけにはいかないだろう。権謀術数の宮廷社会で相次ぐ帝位交代にもまれながらも巧みに政権を渡り歩いた知識人であるが、その著作『年代記』は宮廷に集う人々の人間模様の機微に立ち入り、心理状態まで掘り下げる。この文人の虚栄心、権勢欲、俗物ぶりを嫌う輩(やから)もいるが、それは広大無辺な人格の一面にすぎないという。

十二世紀後半の偉大な古典学者にして、テサロニケ府主教にもなったエウスタティオスは、貧相な風貌ながらも「内に光輝を抱く教育者、かつ多くの業績を挙げた先駆的な人物」であったという。だが、ノルマン軍の侵略で多大な被害を蒙(こうむ)ったテサロニケ市民を悪辣(あくらつ)な金銭欲に対する断罪と説いたのは、あまりにもデリカシーに欠けた。府主教とテサロニケ市民の不仲という不幸な晩年だったが、後世には聖人としてあがめられている。

十四世紀のコーラ修道院聖堂の壁面には、黄金の華麗なモザイクがあり、玉座のキリストに聖堂を捧げる創建者テオドロス・メトキテスの姿がある。彼は国政の権力闘争に身を削りながら、学業も怠らず、膨大な著作を残している。だが、やがて皇帝の権力闘争にまきこまれて、地方都市で流人として暮らすしかなかった。地上の富も権力も一切を失ったメトキテスの最後の望みは、自分の著作が忘却されず、将来にわたって人々に読み継がれることだった。

十五世紀に入るころ、すでにオスマン朝の軍勢に脅かされていたビザンツ帝国に、ひときわ奇矯(ききょう)な文人がいた。その変わり者ゲミストス・プレトンは、太古の賢人ゾロアスターにさかのぼる知を探究し、新プラトン主義の奥義を究め、古代ギリシアの神々をあがめる異教信仰の復興を図るなどという途方もない視野をもっていた。あまりにも多様であるために不可解きわまりない点が多いが、とりわけ、生前、教会から目立ったお咎(とが)めも受けなかったことは特筆される。

これらの文人たちの足跡をたどると、東欧世界にあっては、古代帝国の後退後も、古典古代の精神が息づいていたことが読みとられる。それが、唯一神のみに傾倒して排他的になった西欧世界と異なり、他者を同化して、その精神・技術を活用する生き方を身につけさせたと言えるのかもしれない。異質の他者を拒まずなじませる精神が多芸多才の文人たちに宿りつづけたところに、ビザンツ帝国が千年にわたって存続したことの一因があったのだろうか。

ともあれ、新しい境地を切り開くかのごとき歴史書が、日本のビザンツ史研究者のなかから現れたことは素直に喜ばしい快挙である。
ビザンツ文人伝:言葉で戦った男たちの矜持と憂愁 / 根津 由喜夫
ビザンツ文人伝:言葉で戦った男たちの矜持と憂愁
  • 著者:根津 由喜夫
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(594ページ)
  • 発売日:2025-09-17
  • ISBN-10:4560091994
  • ISBN-13:978-4560091999
内容紹介:
尋常ならざる知性の持ち主たちの奮闘記演説と文章のプロフェッショナルたちの波瀾の生涯世俗の支配層が武人とほぼ同義の西欧中世と違い、ビザンツ帝国では文官・文人が存在感を示した。彼ら… もっと読む
尋常ならざる知性の持ち主たちの奮闘記
演説と文章のプロフェッショナルたちの波瀾の生涯
世俗の支配層が武人とほぼ同義の西欧中世と違い、ビザンツ帝国では文官・文人が存在感を示した。彼らは、美辞麗句ばかりで中味が空っぽとか、言っていることと腹のなかがまるで違う二枚舌だとか、同時代の西欧人から現代の研究者に至るまで、ことあるごとに非難を浴びせられ、「ビザンツ的」と言えば、権謀術数や虚飾や空虚な議論の代名詞のようなイメージが出来上がってしまっている。だが、それはプロの修辞家として、依頼された仕事を誠実に果たした結果であり、個人としての著作や生き方には、また別の顔があった。
本書は、八世紀のコンスタンティノープル総主教ゲルマノス一世から帝国滅亡の十五世紀のプレトンまで十四人を取り上げ、マケドニア朝期の反骨の聖職者アレタス、たび重なる政変を泳ぎ切りつつ膨大な著作をあらわしたプセルロスら、毀誉褒貶入り乱れた異才たちの人生を活写する。そして、固定観念から少し離れて、偏見なしに実際のビザンツ知識人の姿に触れ、言葉の力を武器に戦い抜いた生身の彼らの、暮らしと思想をできるだけ彼らが生きた時代のなかで浮き彫りにすることをめざしている。


【目次】
地図
1 コンスタンティノープル/2 十一世紀半ばのビザンツ帝国
はじめに
1 先駆的な総主教たち
一 ゲルマノス一世――イコノクラスムに抗した聖人総主教
二 ヨハネス七世グラマティコス――総主教は妖術使い
三 フォティオス―― 「マケドニア朝ルネサンス」の開幕
2 マケドニア朝ルネサンス期の首都の文人
一 カイサレイア府主教アレタス――愛書家教会人の武闘派人生
二 「逸名の教授」――市井の文人の不穏な日常
3 「ビザンツの平和」の光と影
一 ヨハネス・ゲオメトレス―― 「再征服」時代の桂冠詩人
二 クリストフォロス・ミュティレナイオス――都会の片隅から見える風景
4 ミカエル・プセルロス――「哲学者の統領」の華麗なる宮廷遊泳術
5 行けば容易に戻れぬテサロニケ
一 テオドロス・スミュルナイオス――冥界のグルメ弁護人
二 テサロニケ府主教エウスタティオス――片意地な学者主教は愛されない
6 ニケタス・コニアテス――帝国衰亡の目撃証人
7 ニケフォロス・ブレミュデス――ニカイア帝国の知恵袋
8 テオドロス・メトキテス――哲人宰相の宿す闇
9 ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン――千年帝国最後の奇才
別表 ゲミストス・プレトン『法律総論』目次
地図
3 十二世紀半ばのコムネノス朝期ビザンツ帝国/4 テサロニケ市街/5 第三回十字軍、フリードリヒ一世の行軍ルート/6 十三世紀のニカイア帝国周辺部/7 十四世紀半ばのパライオロゴス朝期ビザンツ帝国と周辺
あとがき

図版一覧
文献目録

地名索引
人名索引

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2025年10月25日

毎日新聞のニュース・情報サイト。事件や話題、経済や政治のニュース、スポーツや芸能、映画などのエンターテインメントの最新ニュースを掲載しています。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
本村 凌二の書評/解説/選評
ページトップへ