書評
『渋谷陽一評論集 メディアとしてのロックン・ロール 1972-1996』(ロッキング・オン)
エモーションの根拠、考えよ、見つけろ
「デビッド・ボウイと三十分話すよりも、彼の全力投球したレコードに三十分向き合う方が、はるかにデビッド・ボウイの核に触れる事ができる」、昨年亡くなった渋谷陽一が書き記した中でも、特に体の底に沈めて定着させておきたくなる一言である。音楽だけではなくエンターテインメントの語りが、当事者からの発信が中心となり、批評が求められなくなった。だからといって、それを諦め、発信の手助けだけをするようになってはいけない。関係性の有無で語る権利が問われるような空間は嫌だ。雑誌『ロッキング・オン』の創設者にして、音楽評論家の評論集が上下巻・計1000ページを超える大著の形で刊行された。これでも、あの原稿が足りない、こっちじゃないだろ、との声が出るはず。彼の語りは、目の前にある文化芸術をどのように捉えるべきなのか、その羅針盤であり続けた。ただ、羅針盤であっても、それが法規になるわけではない。それは『ロッキング・オン』が投稿誌の形で始動した時から変わらない。1972年8月号、創刊号にある宣言文には「ただあるのは冷たくさめた視点だけ」と記されている。
評論とは、対象となる作品の存在をよりよく伝えたり、厳しい言葉をぶつけたりするだけではなく、常に、その作品に向かう自分が表出するものだとする態度が徹底していた。「他者としての視線を経ない限り、我々は自分自身さえ見ることができないのだ」「自分とのコミュニケーションとは、自らを対象化することであり相対化していくことであるのだ」とあるように、私はいかに存在しているのかとの問いを無数の作品にぶつけた。アーティストの作品や存在を最大限光らせるためのアシストをするために書くのではないのだ。
『ロッキング・オン』だけではなく複数の雑誌を刊行した。総合誌『SIGHT』では、アメリカ同時多発テロが起きた後、アメリカの対応に対し、「報復は不毛」「軍事的にも有効性は少なく、ハイリスクな行為である」との考えで特集を組んだと明らかにした。昨今、簡単に使われるようになりすぎた言葉、「偏向」を使うならば、政治の話題にせよ、音楽のレビューにせよ、偏向する理由を正面から言葉で探し当てていた。
ある時期から「希望と抵抗を歌うロックが、絶望と逃避を歌うものになってしまった」「エモーションの根拠が絶望やシニシズムになってしまった」。目の前にある社会を睨(にら)みながら、「まっとうであろうとすればするほど、そうした発想の袋小路にはまってしまう可能性」が高くなってしまった。
推し活なる言葉が浸透しているように、供給する表現者と受容する消費者の距離が近くなった。距離をとって、自らを覗(のぞ)き込むように他者の作品を堪能することができなくなっている。この作品を自分はどう聴いたのか。このライブをどう観(み)たのか。あくまでも私という主体が真ん中にあり、外にあるものを捉える。そして、捉えた自分を、改めて自分で捉え直す。この繰り返しの運動が日本の音楽評論の世界を育てた。やっぱりこの感じだよねとノスタルジーに浸りたくもなるが、それはこの大著が目指すところではない。では、何をどうすればいいのか。残された人たちで考えて、と促される。
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