書評
『百姓・宇根豊と考える農の哲学 上 AIは百姓になれるか』(農山漁村文化協会)
労働ではない 天地自然に生きる時間
これからの社会を考えるにあたっての最重要課題は何かと問われたら、「農」と答える。農業という産業以前の農という営みである。そこに暮らしの基本と未来があるからだ。本書はその想(おも)いに具体的に答えてくれる。著者は農家の長男として生まれ、大学卒業後、県の農業指導員になり、40歳で百姓(歴史的に大事な言葉で差別語ではない)を始めたという経歴の持ち主である。指導員として重視した科学と、百姓を始めて知った伝統的な「野の知」とをつき合わせての思考が存分に示されるのが本書である。
始まりは減農薬。「普及員は農薬をふらせすぎる」という若い百姓の声に応えて、現場での判断に踏み切る。そこで活用したのが「虫見板(むしみばん)」だ。30センチ×20センチの黒い薄板を稲の株元にあてて反対側から叩(たた)くと虫が落ちる。それを調べると、害も益もない「ただの虫」が多いことや害虫の見直しの必要性などが分かり、田んぼごとに農薬の使い方を決められるようになった。これが、生産性だけを考えて一律化する「農業」から、天地自然を知り、食べものを生み出す「農」への転換の始まりとなる。
食は生きる原点であり、文化の基本でもある。ところで食べものは原則生きものであり、激しい表現をするならそのいのちを奪うのが食べることだ。農は「殺すために育てる」行為であり、自身が生きものである人間に悩ましさを突きつける。そこをどう考えるか。著者は「作物に(家畜に)自分の生死を重ね合わせる」と書く。天地自然のめぐみをもらって生きているという「共感」や、手入れを通しての「一緒に生きている」という感覚がそれを生み出すのだ。「その生を全うすることを助け合う」のが「いのち」に向き合った百姓仕事の本質であるという言葉に教えられた。評者が以前訪れた農業高校で、ソーセージ作り実習用の豚の体をていねいに洗い、愛(いと)しそうにしていた女生徒の姿が目に浮かぶ。それ故に、著者は家畜のウイルス感染の際に行われる殺処分には異を唱える。ここにはいのちへのまなざしがないからだ。
百姓仕事の具体を示す章が「なぜ『草とり』が一番楽しいのか?」で始まるのが興味深い。畑で働くお婆(ばあ)さんが、「草とりが一番楽しか」と言うのだ。同じことのくり返しなのになぜ? と問いたくなるが、季節がめぐり、またいのちに会える喜び、くり返しであるからこその安堵(あんど)があると言う。時に草とも話をしながらの時間は、仕事ではあるけれど労働ではない。田畑にいる時間は生きる時間であり、タイパやコスパとは無縁である。私も庭の草とりが嫌いではない。いや、無心を楽しむ時間になっている。生きるとは時を紡ぐことであると実感する。自然という言葉が操作の対象を思い浮かべさせる現代、こうして天地自然に向き合うと、それは所有、私有にそぐわないことも分かってくる。
百姓には、草とり、手入れ、手間、仕事などの日常があるのだが、近年の学術用語、行政用語では、それが除草、技術、労力、労働となり技術革新と生産性向上だけに目が向くことになってしまった。科学と伝統知のつき合わせを求める著者は、言葉を大事にする。「めぐみ返し」など著者の造語も含めて、百姓としての言葉の一つ一つを嚙(か)みしめながら、改めて「農」の重要性を確認した。
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