書評
『ミシュラン 三つ星と世界戦略』(新潮社)
「ガイド」大転換が伝えるフランスの現在
「知らない町に行ったら、レストランでもホテルでもミシュランの一つ星を選んでおけばまず間違いない」。こんな旅行の秘訣を恩師から聞かされたのが四十年前のこと。当時はミシュランの星といわれても何のことかわからず、ガイド・ブックがタイヤ・メーカーの販売促進から生まれたことも知らなかった。それがどうだろう。いまやミシュラン東京版が発売されるやマスコミでフィーバーが続くし、ミシュランという言葉も「星による格付け」の意味の普通名詞と化している。だが、それにしてはガイドの権威の由来も、またタイヤ・メーカーがグルメ・ガイドを始めた経緯もあいまいなままだ。本書は、新聞社の元パリ支局長が、星取り競争に命を削るシェフや元覆面調査員の実態から説き起こして、謎につつまれたミシュラン「王朝」の系譜までを解き明かした興味深いドキュメンタリーである。現在、フランス版ミシュランの三つ星シェフ二十数人は「国家を代表する芸術家か大企業のトップ並に扱われる」。たしかにジョエル・ロブションやアラン・デュカスはサルコジ大統領に並ぶ世界的有名人である。料理を志した者が三つ星を目指すのも当然である。南仏の寒村に開いたレストランで苦節十八年、ついに三つ星獲得に至ったジル・グジョンは「僕にとって、ミシュランは聖典だよ。ミシュランすなわち世界と言っても過言じゃない」と語る。なぜ聖典かといえばミシュランが「つくる側と、食べる側と」の「ゲーム」のルール・ブックとなっているからである。ただし、このゲームの「ルール」は明示されていない。覆面調査員は秘密裏に採点を行うし、審査基準も経緯も発表されていないからだ。
そのため、星ありレストランのシェフは、星を失うのではないかと極度の不安にさいなまれ、重圧に耐えきれず死を選ぶ者さえ出てくる。同時にゲームへの参加を拒否するシェフも現れる。味が勝負のネオビストロの誕生である。ネオビストロの旗手クリスチャン・コンスタンは星付きレストランのシェフのプレッシャーに耐え兼ねてビストロを始めたが、どうしたわけかミシュランの二つ星がついてしまい、星一つ分の返上を願い出た。
この珍現象はミシュランという名のゲームのルールが変容しつつあることを如実に物語っている。格式や接客態度などの「典礼」に星を与えていたミシュランがルールそのものを変えようとしているのだ。それは、二〇〇四年に六代目の総責任者に就任したジャン=リュック・ナレが「星は皿の中だけである」と強調したことに始まるが、原因をたどるとミシュランが「和食」を視野に入れざるをえなくなったことに行き着く。
「料理人が一人で切り盛りするような小さな店で、三つ星に匹敵する素晴らしい料理が出てくる店は、フランスではあり得ない。しかし、ニューヨークや日本だとあり得る。ミシュランはそれに気づいて、対応を図った。ガイドを世界展開するためには、一枚脱皮する必要があった」
ではなぜ大転換が必要だったのか? タイヤ・メーカーとしての世界戦略と連動しているからだ。ミシュランの売上はタイヤが九九%、ガイドや地図は一%であり「ガイドはタイヤのためにある」。つまり、ガイド部門のルール変更はタイヤ部門の世界戦略の一環なのである。日本で理解されていなかったのがこの点であり、本書の功績もこれを明らかにしたことにある。一般に、クレルモンフェランに設立された株式合資会社「ミシュラン」の発展はパリを離れたがらない技師の兄アンドレに代わって画家志願の弟エドワールがパリから戻って一八八九年に社長となりタイヤ製造部門を引き受けたことに始まるといわれ、これに、兄アンドレがイメージ・キャラ「ビバンダム」を開発したり、ガイド・ブックを考案したりしたことが相乗効果をもたらしたとされるが、主流はつねにエドワール系にあり、アンドレ系は傍系にとどまっていた。そして、この兄弟の関係がミシュランという会社の本質を規定しているのである。
「ミシュランという企業の総体を考えると、兄アンドレと弟エドワールがガイドとタイヤという形で仕事を分担した時に、すでにこの流れは決まっていたといえる。ミシュランはタイヤメーカーであって、ガイドの出版社ではない。日本ではこれが逆に受け止められている節がないでもないが、タイヤとガイドとの力関係は歴然としている。タイヤを任された方が全体を統括するのは、ある意味で当然のことなのだ」
だが、いまやタイヤ部門でも二十一世紀のミシュランは岐路に立たされている。無限責任を負う株式合資会社の共同社主だったエドワール・ミシュランの事故死を機に、地域に根差す父性的同族会社から国際的企業への脱皮が迫られているからだ。
ミシュランの変化はフランスの変化。ガイドとタイヤに象徴されるミシュランを分析することでフランスという国の状況まで照らし出した画期的なフランス論。
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