書評
『音楽を展示する―パリ万博1855‐1900』(法政大学出版局)
パリ万博が音楽に与えた知られざる影響
万国博覧会はフランス語のエクスポジシオン・ユニヴェルセルを訳したものだが、訳語としては「万有博覧会」が正しい。つまり、この世に存在する人為の加わったすべてのものについての(ユニヴェルセルな)展示(エクスポジシオン)なのである。ところで、第一回万博(一八五一年)をロンドンに持っていかれて地団駄(じだんだ)踏んだパリ万博(一八五五年)の当局者たちは、産業部門のほかに芸術部門を付け加えて差別化を図ることにしたが、美術はさておき、音楽をどうやって「展示」したらいいかという問題が起きる。本書は、この問題を巡って展開された侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を出発点に、万博における音楽の「展示」が後の世の音楽活動全般にどのような影響を与えたかを遠望する音楽歴史学のユニークな試みである。
まず、一八五五年のパリ万博から行くと、音楽部門は結局「展示」されることはなかったが、オルフェオンと呼ばれるアマチュア合唱・器楽団体および軍楽隊のコンサートが万博記念フェスティバルに登場したことで、俄然(がぜん)、注目を集めるようになる。なぜなら、競争による質の向上と民衆の啓蒙(けいもう)を柱としていた万博に、オルフェオンと軍楽隊はぴたりと合致したからだ。この傾向は音楽が芸術部門に採用された一八六七年パリ万博で明らかになる。
理由の一つは、当初、呼び物となるはずであった国際作曲コンクールが不発だったこと。すなわち、コンクールの「カンタータ」部門ではサン=サーンスが「プロメテウスの婚礼」でビゼーやギロー(二人は匿名で応募)を蹴(け)落として特選に輝いたが、晴れの褒賞授与式では、大御所ロッシーニがナポレオン三世に献じた「皇帝賛歌」が演奏され、サン=サーンスは正式プログラムからは外されるという屈辱を味わう。もう一つの「賛歌」部門でも入賞者が出ず、作曲コンクールは当初の目論見(もくろみ)にもかかわらず尻すぼみに終わった。
これに対して、軍楽隊国際コンクールは各国が威信をかけて参加したため水準が高く充実したプログラムとなった。一位にはプロイセン代表とパリ・ギャルドが選ばれたが、帝国親衛隊軍楽隊の影のような存在だった後者は、以後、フランスを代表する軍楽隊に成長してゆく。またオルフェオン・コンクールでは、組織委員会が「民衆のための音楽」という理念に基づき、力を注いだため、合唱・器楽の両部門とも参加団体は多かった。
一八七八年の万博では、五〇〇〇人収容の大ホールと巨大オルガンを擁するトロカデロ宮がシャイヨーの丘に建設されたこともあって、音楽の「展示」についてはもっとも充実した万博となった。トロカデロのホールは音響効果の面で問題があったが、オルガン演奏の面では素晴らしく、会期中に催された連続コンサートは多数の聴衆を集めた。また、予算の七割が注ぎこまれたオーケストラと室内楽のオフィシャル・コンサートでは、レピーヌを始めとする関係者の夢だった「同時代の作曲家の作品を『展示』するというイベント」がついに実現したばかりか、各国からも積極的な参加があり、「音楽の万博」はその理念をここに結実させたのである。これ以後、一八八九年万博、一九〇〇年万博と、音楽は、パリ万博の有力な要素となっていく。
埋もれたままになっていた膨大な資料を発掘、検証し、パリ万博が音楽に与えた影響を丹念に跡付けた労作。今後、この分野での第一級の基礎資料となるだろう。ベルリオーズ、サン=サーンス、ビゼー、フランクなどの興味深い逸話も満載で読み物としても楽しめる。
ALL REVIEWSをフォローする


































