書評
『心的外傷と回復 〈増補版〉』(みすず書房)
PTSD
PTSD(心的外傷後ストレス障害 Post-Traumatic Stress Disorder)という言葉を最近よく見かけるようになった。村上春樹さんの近著『アンダーグラウンド』(講談社)にも出てくる(ALLREVIEWS事務局注:本書評執筆年は1997年頃)。レイプ、震災、交通事故、幼児虐待、戦闘などで心に傷を負った人間がかかる精神障害の一種だ。そのPTSDについて知る上で、もっとも重要な本の一つが『心的外傷と回復』(ジュディス・L・ハーマン著、中井久夫訳、みすず書房)である。ぼくが不思議に思っていたのは、なぜ精神障害であるPTSDが現在になって急に浮上してきたのかということだった。その疑問に『心的外傷と回復』は見事に答えてくれる。
まず、PTSDと呼ぶしかないこの症状は決して最近現れたものではなかったのである。
心的外傷の研究の歴史は奇妙である。ときどき健忘症にかかって忘れられてしまう時期がある。活発に研究が行われる時期と忘却期とが交替して今日に至っているのである。十九世紀においては同じような形の研究がとりあげられては唐突に捨てられ、だいぶんたってから、再発見されるということが何度も行われている。……。
心的外傷の研究は、関心がなくなったから停滞するのではない。そうではなくて、このテーマはきわめてはげしく論争を惹き起こすので、周期的に「見るもけがらわしいもの」となってしまうわけである。心的外傷の研究は、くり返し何度も「考えることができないもの」とされ、「信用するか信用しないか」というぎりぎりのところまでいった。
著者によれば「十九世紀において三度、心的外傷のそれぞれの一つの形が、公衆の意識の表面に浮かび上がって」きた。最初はヒステリー。第二は「シェルショック(砲弾ショック)と戦闘神経症」であり「第一次大戦後のイギリスとアメリカ合衆国とに始まり、ベトナム戦争後に頂点をきわめた」。第三は「最近公衆の意識に上ったもので、性的暴力と家庭内暴力」であり、「その政治的な流れは……フェミニスト運動である」。
いうまでもなくヒステリー研究は精神病研究の第一歩だった。そこで、はじめて精神病は科学になった。
もちろん、ここでもフロイトが登場する。
最初のうち、どの精神科医もヒステリー患者の内面生活には無関心だった。フロイトだけが患者の内面に視線を注いだ。フロイトは患者の内面を探究し「いずれのヒステリー症例の基底においても過早な性的体験が一度あるいは二度以上生起しており、これが生起したのは幼年時代のもっとも初期の数年である」という結論に達した。ヒステリーの根本原因は「幼少期の性的虐待」だったのである。
しかし、フロイトは数年のうちにその結論を覆す。女性のヒステリー患者はあまりにも多かった。もし自身の結論が正しいとするなら「幼小児に対する倒錯行為」はあらゆる階層の家庭に蔓延していることになってしまう。そんなことはありえないではないか。それは、患者たちが勝手につくり出した妄想なのだ。
フロイトは自らが暴き出した真実の前で怖じ気をふるったのである。フロイトの最初の仮説が誤りでなかったことが立証されるためには、フェミニズムの発生を待つしかなかったのだ。
『心的外傷と回復』は「心的外傷」の研究を通して、現代史の書き換えそのものを目指した野心的な傑作である。
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