コラム
アナイス・ニン『アナイス・ニンの日記』、ゴンクール『ゴンクールの日記』
性愛を蒐集する男、自己愛を投影する女
生前に刊行された日記は“編集”されていたことが明らかになり、死後「噓つき」という評価が定着したアナイス・ニン。片や一九世紀後半のパリの風俗や文壇事情を、日記のなかで赤裸々に描いたゴンクール兄弟。両者の日記から、男と女の性愛に対する意識の違いを読み解く。日記を読むために必要なリテラシーとは
一九〇三年にフランスで生まれた作家のアナイス・ニンは、一一歳から六〇年以上にわたって日記を書き続けました。一九七七年に七三歳で亡くなるまでの四万ページ近い日記が初めて刊行されたのは、晩年の一九六六年春、六三歳のときでした。ニューヨークの大手出版社ハーコート・ブレイス社から出版されたその日記は、現在「編集版」と呼ばれています。なぜわざわざ「編集版」という文言が付されているのか。それは彼女の死後、『ヘンリー&ジューン』などの「無削除版」が刊行されたからです。アナイスの生前に出た日記は、「作者自身によって“編集”されていた」ことが明らかになったのです。こうした経緯は、日記というものの本質を突いた出来事と言えるでしょう。
つまり、もしアナイスが日記の原本を焼き捨てていたとしたら、「編集版」の記述が唯一の真実として語り継がれていたかもしれない。日記のどこまでが事実で、どこからが文学作品なのか、その現実と虚構の境目は作者以外の誰にもわからないのです。
では、日記に書かれた虚実を見極める「日記リテラシー」を身につけるには、どうすればいいのか。二千夜もの夢を記録し続け、『夢の操縦法』という本を著した一九世紀の中国文学研究者エルヴェ・ド・サン=ドニ侯爵は、「夢日記をつけるには、自分が夢を見ているということを強く意識しないといけない」と言っています。他者の日記を読むときは、この「夢日記」と同じように、陶酔しながらもテキストを俯瞰する冷めた意識をもたなくてはなりません。日記には、小説における虚実とは似て非なる「虚実の皮膜」がある。それを意識して読むことが、日記リテラシーというものなのだと思います。
陶酔のただなかで自己を疑う――『アナイス・ニンの日記』
先ほど紹介した『アナイス・ニンの日記』は、原書も邦訳書も複数の版があります。どれも作家・芸術家たちとの交遊関係や恋愛遍歴が記録されていて、アナイスの自己探求の足跡を垣間見ることができますが、なかでも注目すべきなのが『ヘンリー&ジューン』に始まる「無削除版」シリーズです。「無削除版」シリーズは現在五巻(邦訳は二巻)まで出ています。フィリップ・カウフマンによる映画化で第二次アナイス・ニン・ブームを起こすことになる『ヘンリー&ジューン』は、刊行当時、読者を大いに驚かせました。「編集版」には登場していなかったアナイスの夫ヒューゴーが突如現れるなど、これまで書かれていなかった事実が明らかになったからです。「性愛」という観点で見るならば、やはりこの『ヘンリー&ジューン』から読むのがいいでしょう。アナイスはまず作家のヘンリー・ミラーと知り合い、作家としての彼の才能に強い尊敬の念を抱きながら、男としての彼の魅力に溺れていきます。しかし、ほぼ時を同じくして彼の妻のジューン・マンスフィールドとも出逢い、ひと目で彼女の虜になってしまったのです。
息を呑むほどの白い顔、燃える瞳。ジューン・マンスフィールド、ヘンリーの妻。庭の暗がりから、玄関ホールの明かりの中に入った彼女を見て、生まれてはじめて、私は、この地上で、もっとも美しい女性に出逢った、と思った。(一九三一年一二月/杉崎和子訳『ヘンリー&ジューン』角川文庫)
やがてアナイスは、ジューンとの会話に出てくる女友達にも嫉妬するほど、彼女に魅了されていきます。
料理店を出るとジューンが言った。「あなたを抱きたかったのに」心残りの響く声だった。タクシーを止めて、彼女をのせる。ジューンを中に坐らせて車は、走り出そうとしている。身悶(みもだ)えするような思いで、立ちつくす私。「あなたに、キスをさせて」とうとう、そう言っていた。「あたしにも」ジューンが、彼女の唇を呉(く)れた。長い間、私は、その唇を離さなかった。(一九三二年一月/前掲書)
しかしアナイスは、ジューンの美貌に溺れつつも、ヘンリーとの荒々しいセックスにのめり込んでいきます。
私が覚えているのは、ヘンリーの貪欲さ、エネルギー。「君のお尻はステキにきれいだ」って言われたこと。湧き出す蜜。凄まじい快楽の波。終わりのない融合。平等な快楽。待ちに待っていた性の深さ、暗さ、窮極、赦禱式。躰(からだ)の芯に触れる男の肉は私を征服し、濡らしながら、力強くその焰をよじった。
「感じるかい? え、感じるか?」
私は何も言えない。眼も頭も血で一杯だ。言葉は溺れてしまった。意味も音も不確かな、叫び声しか出せない。女の躰のもっとも原始的な根からあがる叫び声、子宮から蜜のように逬(ほとばし)り出る咆哮。
悦ばしい。涙が出る。言葉はない。私は征服されて、言葉を失くしていた。
ああ、こんな日が、私の「女」がこうも完璧にうち据えられる日が、何ひとつ残さずに、私の全存在を捧げられる日があったなんて。(一九三二年三月/前掲書)
「編集版」で隠されていた夫については、「ヒューゴーだけが、その幸福を私に呉(く)れる。熱に浮かされた私の心や躰の跳躍も、その幸福を損なうことはありえない」(一九三二年三月/前掲書)と書いています。精神的な憩いの場所をヒューゴーの腕の中に求めているわけです。夫との結婚生活に満足していたアナイスですが、その一方で浮気相手であるヘンリーとのセックスではオーガズムを感じられないと綴っています。
そういえば、ヘンリーとのセックスで、とっても快感は大きいけれど、本物のオーガズムは感じたことがないのかもしれない。一点のクライマックスめがけて、登りつめていく快感じゃなくて、幾つにも分かれた、ばらばらの瞬間的な反応なのだ。ヒューゴーとの時は、たまに、オーガズムを感じる。マスターベーションの時も。ヒューゴーは私が脚を閉じるのが好きだし、ヘンリーは大きく広げさせるからかしら?(一九三二年四月/前掲書)
こうした記述を読むと、「アナイスはヘンリーとの荒々しいセックスを媒介にして、じつはジューンと結ばれようとしていたのではないか」と私には思えてきます。なぜかと言うと、無削除版の第二巻『インセスト アナイス・ニンの愛の日記』(杉崎和子編訳、彩流社)を読むと、性に対して奔放なように見えながらも、アナイスからヘテロセクシャル(異性愛)への嫌悪を感じ取ることができるからです。『インセスト』には「編集版」では伏せられていた精神科医などとの性愛も描かれています。そうしたヘンリーやヒューゴーも含めた多くの男性たちとの性行為に、アナイスはある種の嫌悪感を抱いていたのではないか。つまりアナイスの性愛は、ヘテロへの嫌悪を経由して、究極的には自分に最も近い同性へと向かっていたのではないかと私は見ているのです。
他者への強烈な愛は、自己愛の裏返しでもある。アナイスの場合、自己愛の最も純粋なかたちが「ジューンへの愛情」だったわけです。
性愛遍歴自慢をする男たち―『ゴンクールの日記』
一方、男性作家の日記に描かれる奔放な性愛遍歴は、アナイスのそれとは大きく異なります。たとえばエドモンとジュールの兄弟による『ゴンクールの日記』は、一九世紀後半のパリの風俗や文壇事情を描いたものとして、きわめて資料性の高い貴重な作品です。その『ゴンクールの日記』が面白くなるのは、ゴンクール兄弟とフロベール、ドーデ、ゾラ、サント=ブーヴ、ツルゲーネフらが月二回レストランに集う「マニー亭晩餐会」が始まるところからでしょう。文学論議や他愛もない噂話が交わされるなか、いつの間にか始まってしまうのが、それぞれの性愛遍歴自慢です。文字どおりの自慢話もあれば、どれほど卑屈な振る舞いをしたか、どんなに惨めなセックスをしたか、ふられた話から梅毒にかかった話までとにかく自慢し合うのですが、それをゴンクール兄弟は書き留めていました。
ゴンクール兄弟は特にフロベールと仲が良かったのですが、その反面、強烈なライバル心も抱いていました。「フロベールは逆説(パラドックス)だらけであるが、その逆説たるや彼の虚栄心同様に田舎者じみている。それら逆説は野卑であり、鈍重であり、いやらしく、わざとらしくて品がない」(一八六二年一二月六日/斎藤一郎編訳『ゴンクールの日記』岩波文庫、上巻)と罵倒することもしばしばでした。さらに『ボヴァリー夫人』に出てくる青年レオンがエンマ・ボヴァリーを辻馬車のなかでものにする有名なシーンが、実はフロベール自身がルイーズ・コレという人妻の詩人を口説き落とした体験に基づくものだったことも日記のなかで曝露しています。
一九世紀パリの作家たちに限らず、男の語る女性遍歴は多かれ少なかれコレクション自慢であり、勲章自慢です。しかし女性作家の場合、ニンフォマニア(色情症)を除けばコレクション自慢にはなりません。
女性作家による性愛は、おおよそ二つの類型に分けることができます。すなわち紫式部とアナイス・ニンの二種類です。紫式部にとっての光源氏は理想化された男性像であって、現実には存在しない。そこにリアリティは必要としていません。
アナイスの場合、その根源にあるのは自己愛だと思います。つまり男は「自己愛を投影するスクリーン」にすぎず、ヘンリー・ミラーであっても交換可能な媒介のひとつになってしまう。そこに自己のコピーをはるかに凌駕するジューン・マンスフィールドが現れて、自己愛の境界が激しく揺さぶられた。『アナイス・ニンの日記』はどの版であっても、激しく揺らぐ自己と、それを冷静に書き留めるもうひとりの自己とのせめぎあいがあり、それが他の日記文学にはない凄みとなっています。そこが、女性の手になる性愛の記録として、これを超えるものがいまだに現れていない理由なのです。
構成・文=柳瀬 徹
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