コラム
奥田 継夫『世界にも学童疎開があった』(日本機関紙出版センター)、高井 有一『少年たちの戦場』(講談社)、『昭和―二万日の全記録』(講談社)
学童集団疎開を聞く
在日朝鮮人の友人から「日本人はよく、知らなかったというけど、戦後五十年近くたってそれはないでしょう。断片的にせよこんなに情報のある国はないんだし、知ろうとしないだけじゃないかな」といわれた(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1995年頃)。痛烈だった。知ろうとする、理解する、共感する、知らせようとする。むずかしくともその人間的な行為の可能性に絶望することはできない。そういえば高校生のころ、大江健三郎『核時代の想像力』はじめ“想像力”という言葉は輝いていた。いままたこの力が決定的に重要なのに、他人の痛みに対しても他国の実情についても、想像力を欠いた皮相な言説ばかりが跋扈(ばっこ)しているように思える。
こんなことを考えたのは、最近、町で、学童集団疎開の聞き取りをしているからだ。体験者たちは、伝わらないもどかしさでますます熱が入り声が高くなる。にもかかわらず伝わりにくいのにはいくつかの理由がある。
第一に、東京、大阪をはじめとする都市部の限られた世代、当時「国民学校」三~六年生と、体験者の数も少なく層も薄いこと(期間は昭和十九年八月から二十年秋の学校が多い)。
第二に、欠食、体罰、いじめ、ピンハネ、シラミなど、思い出したくもない嫌な体験として沈黙している人が多いこと。
第三に、同じ世代でも縁故疎開、集団疎開、残留組という区別、差別があり、また「脱走組」とよばれる、逃げ帰った、あるいは連れ戻された子どももいること。『世界にも学童疎開があった』の中で奥田継夫氏は、身体障害児、知恵遅れ、虚弱児などが残留させられたことを「棄民」と表現している。町で聞きとっていると、集団疎開そのものに一人月十円かかり、この費用を払えない子、布団や衣類を送れない家の子も残留せざるを得なかった。もう一つの差別である。
なぜこのような「棄民」が起こったかは、学童疎開の目的とかかわる。いままで私はうかつにも「子どもの安全」のための疎開だと思っていた。
しかし、「学童集団疎開ニ於ケル教育要綱」(昭和十九年十二月十三日)に、「学童集団疎開ハ重要都市ノ防衛力ヲ強化スルト共ニ次代ヲ荷フ皇国民ノ基礎的錬成ヲ完ウシ聖戦目的ノ完遂ニ寄与スルヲ以テ趣旨トナス」とある。第一義は「次代の戦力の確保」だったのである。これは優れた集団疎開小説、高井有一『少年たちの戦場』でも紹介された、
つきの世をせおふへき身そたくましく正しくのひよ里にうつりて
の「皇后宮御歌」にも明確に現われている。もう一つは都市決戦のため、「足手まといの排除」であり、老人、幼児、妊産婦などの疎開も推奨された。しかし、「次代を背負う」力もないと判断された知恵遅れや、身体障害児は、ここから切り捨てられ、おいてけぼりにされた。
町で疎開体験を聞いていても、受け入れた村の体制、送り込んだ町の援護体制、分宿した旅館や寺の人の人柄、大部屋か小部屋か、先生や寮母の人格、班長の人格、自然風土、食糧事情、流行病の有無によって印象はさまざまだ。
痛感したのは多くの場合、地域史としての学童疎開は行政史、町会誌、あるいは学校の周年記念誌などで軽く扱われているにすぎず、役所、町会長、とくに教師に都合の悪いことはまず書かれていない。「つらかったけれど学校ぐるみでがんばりました」程度の記述になってしまう。「ウサギが一匹逃げただけで夜中、全員をたたき起こし、寝起きの女の子にビンタを加えた」、「先生が宿の主人にまるめ込まれて学童の食糧の横流しに協力し、先生の家族だけ毎日ご馳走を食べていた」といった話はまずのらない。
五十年近くたてば、記憶にはズレが生じ、主観的になりやすい。主観的記憶も一つの真実ではあるが、そこを跡付けるのには当時の日記や手紙の収集も大切だ。昨年発行された、現職の教師末武芳一氏の努力による『書きつづけた日記、送りつづけた手紙』(非売品)は、下谷区谷中国民学校(現・台東区)の疎開記録として貴重なものである。
昭和十九年十二月九日(土)曇
午前中、雪すべりをしてあそんだ。午後、さつまいもごはんをたべ学校へ行つた。今日久しぶり電気がついた。晩、南瓜の油いためだつた。とてもおいしかつた。朝てつかんみそのおかずがあつた。学校のかへりに南瓜をいただいた。(大川猛氏の日記)
淡々とした記録に子どもの日常が伝わる。
八月になれば、すいとんを作り、死んだ知人の誰彼を泣いた父がもう戦争を語らない。私の子どもは、戦争が出てくる映画や本を嫌がる。たしかにヘキエキする、安易に感情に訴える作品も多いのだ。語りつぐにはどうすればよいのだろう。
私はせめて一日一日を追体験しようと、『昭和二万日の全記録』(講談社)を読みはじめた。これは、面白くてためになる本だ。片ページに二週間の日録。五大都市の午前九時と午後三時の天気と気温もわかる。当時書かれた日記、書簡も載っている。戦時中の物資欠乏中、現在と同じく座席なし電車が走り、割箸持参運動があったのには驚いた。
満州事変の直前までモボ・モガが流行、エログロナンセンスに興じていたのは不思議な気がする。なしくずしに戦争体制は進行し、なだれを打つのは速い。読みすすむにつれ、なにより「錬成」という言葉に吐き気がし始めた。
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