解説
『室町少年倶楽部』(文藝春秋)
ひとつは大人の論理に回収されるのを断固拒否する決意である。
おそらく、この物語をつくりだすときに、なによりも山田風太郎の興味をそそったのは、十歳の将軍に対して、今の総理大臣に当たる管領細川勝元が十六歳でしかなかったという、最高権力者の絶対的な「幼さ」である。この「少年倶楽部」においては、指南役たる細川勝元がいかにしっかりとした少年であるとはいえ、子供の論理、つまり快楽原則を免れえない。おかげで、二人は、四条河原のにぎわいに引かれて、あやうく騒動に巻き込まれそうになる。それを救ったのが「大人倶楽部」の住人たる山名宗全の「権力」で、これをきっかけに、少年細川勝元は「大人倶楽部」の一員となるが、いっぽう、元服をむかえた少年三春丸は、あくまで「少年倶楽部」にとどまろうとして、将軍義政になることを拒否する。ひとことでいえば、ピーターパンたらんと欲するわけである。
この成熟の拒否の姿勢は、マニエリスムの芸術家や作家の生涯にはかならずあらわれるもので、山田風太郎にももちろんそれがある。といっても、それが彼の生涯のどの部分と対応しているのかといった野暮な詮索はやめにしておこう。それは、いずれ山田風太郎の研究者がやればいいことである。
それはともかく、少年山田風太郎が、人生のいずれかの時点で、「大人倶楽部」に入ることを拒否し、「少年倶楽部」にとどまろうとしたことは確かである。この意味で、将軍職を弟に譲って、自分は出家しようとした義政の中に、作老はかなりの程度、自己を投影している。
だが、「大人倶楽部」の論理がそれを許すはずはない。
では成熟を拒否する少年将軍をどのようにして「少年倶楽部」から抜け出させればいいのか?大人たちがこのために考え出した方策とは、少年がそれを経験した次の瞬間から否応なく少年ではなくなってしまうあの最も現実的な通過儀礼、すなわちセックスである。かくして、少年将軍のお守り役だったお今が側妾に引き立てられ、三春丸は義政へと変身を遂げる。
「三春丸さま、私はいままで三春丸さまのお守りでした。これからもお守りをいたします。毎夜、毎夜、こんな風に」
と、お今はいって、三春丸の手をとって自分の胸にさしあてた。
それから、羽二重の肌小袖をそっとかきひらいて、一方の乳房を出して、おかしいほどふるえている少年の手を、はげしく起伏している真っ白な乳房へまたおしあてた。
この少年将軍義政とお今の初夜は、私が読んだあらゆる官能描写の中でもベストに数えられるほどの出来栄えで、山田風太郎はこれが書きたくてこの作品をものしたのではないかと思わせるほど迫真力を持っている。それは、ある意味で最も理想的な少年の性のイニシエーションである。
したがって、ことがこのまま順当に運んだなら、少年将軍の成熟も容易に達成されたかもしれないが、ここでいかにも山田風太郎らしいアクシデントが起きる。義政がお今にのめり込みすぎて、宮廷政治の勢力バランスが崩れたのだ。その結果、悲劇が起こり、お今は闇に消える。この時点で、義政は、ある決意を固める。
「えい、好きなようにやれ、わしも好きなようにやる。お前らと同じく、人間ではない人間としてな」
では、義政にとって「人間ではない人間」とはなんなのか?それは、俗世の論理を超越した美的人間となって、永遠の人工楽園を建設することである。義政は、ヨーロッパ十九世紀末のデカダン人間、たとえばユイスマンスの『さかしま』の主人公デ・ゼッサントやババリアの築城王ルートヴィッヒニ世の元祖なのだ。
「上様、それはしかし、それでは天下が滅びまする!」
「天下は滅ばば滅びよ、世は破れば破れよ。あははははは!」
義政は笑った。
「お前のいう天下とは、私欲背信、魑魅魍魎の世界じゃ。百姓町人とて、自由狼籍、下克上の餓狼のむれじゃ。そんなやつらがいかに騒こうと、ひしめこうと、泣こうと、わめこうと、もともとが無意味な渦なのだから、やがて泡のごとくあとかたもなく消え失せる。わしの作った美の世界は、いつまでも地上に残る。みんな、やりたいことをやらせろ」
この義政の言葉は、『戦中派不戦日記』『戦中派虫けら日記』の読者には、当然のように、山田風太郎自身の言葉として聞こえる。「大人倶楽部」への入会を拒んだ山田少年にとっては、義政に応仁の乱などどうでもいいことと映ったように、戦争も敗戦も「もともとが無意味な渦」にすぎなかったのである。というよりも、そう思い込むことに決めたのである。これが第二の決意である。「みんな、やりたいことをやらせろ」逆にいえば「やりたくないことはやらない」である。
ところで、この義政の言葉は、政治という「無意味な渦」がうたかたのごとくに消えたあとも、ついに東山銀閣寺という「美の世界」は残ったという意味では、「物語の中の予言」であるが、それは同時に「物語の外の予言」でもあるのだ。なぜなら、おそらく、二十一世紀になって、歴史の「なぞり」しかできなかったあまたの歴史小説が「泡のごとくに消え去った」あと、山田風太郎の用意したマニエリスムの「美の世界」は「いつまでも地上に残る」はずだからである。
二十世紀もどん詰まりの世紀末、いまや、山田風太郎の用意した別解が、正統的な歴史を一挙に無化してしまうような妖しい輝きを放ちはじめたようである。
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