解説
『大菩薩峠〈9〉』(筑摩書房)
「変な小説」の過激なキャラクター
大衆小説は悪役が命とはよく言われることだが、『大菩薩峠』はその悪役が初めから主人公として登場する。これだけでも、相当に風変わりな小説であるが、その悪のヒーロー机竜之助が罪なき老巡礼を一刀のもとに斬り殺したのを皮切りに数限りない無動機殺人をかさね、累々たる死体の山を築いていくにもかかわらず、いささかも良心の呵責に苦しまないどころか、善意の登場人物(あるいはムクのような動物)からもさまざまな形で愛され、しかも語り手からなんの指弾も受けずに最後まで生き延びて、おまけに読者からは絶大な支持をもって迎えられるのであるから、やはり、これは、大衆小説の文法に照らしても、相当に「変な小説」だと言わざるをえない。いや、古今東西を探しても、これだけ「変な小説」はほかに見当たらない。我々は、この点を見逃すべきではない。なぜなら、『大菩薩峠』が、時代を超えて生き延びたのは、まさに、これが、超弩級の「変な小説」だったからである。「変な小説」であるにもかかわらず、ではなく、この「変さ加減」の徹底ぶりによって、『大菩薩峠』は時代を超えたのである。それは親鷺の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉のウルトラ級の逆説に秘められたパワーに似ている。「変さ加減」の力はじつに偉大だったのである。したがって、『大菩薩峠』の魅力の分析ということであれば、まず、これがどの程度に「変な小説」であるかを説き明かさねばならないが、もしそれを本気でやろうとすれば、ゆうに一巻の本は必要になるので、ここでは、登場人物の性格という一点にだけ絞って議論を進めてみよう。
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『大菩薩峠』が「変な小説」であるのは、いうまでもなく、机竜之助という、とてつもなく「変な」ヒーローの性格に因る。この主人公の支離滅裂な性格をなんらかの合理的解釈によってつなぎ合わせて、そこになにかしらの意味を見いだそうとすることは、それがたとえうまくいったとしても、ほとんど無意味な行為である。机竜之助は、『異邦人』のムルソーなど足元にも及ばぬほど不条理なヒーローであり、まさにその不条理性によってのみ意味を持つ。机竜之助が己の行為に説明を与えたり、あるいは語り手が合理的解釈を行ったりしていたなら、『大菩薩峠』は風変わりな説教小説として、大衆文学史の片隅に小さく記述されたにとどまり、とうてい今日のように広く読みつがれることはなかったにちがいない。
しかしながら、もし、机竜之助が、不条理演劇や不条理小説の主人公のように、いかにも哲学や思想の投影であることを窺わせるような、作為的な不条理の産物であったなら、決して読者大衆に受け入れられることはなかったであろう。いいかえれば、机竜之助の不条理は、中里介山の意識によってつくりだされたものではなく、無意識の中の、しかももっとも遠くの神話的な次元にまでさかのぼる無意識の核のような部分から生み出された、個人的なレベルでは制御が効かない不条理なのである。それゆえに、われわれは、机竜之助の分裂症気味の行動に驚きあきれながら、こんなのインチキだとは決して思わず、実在の、小説より奇なりといわれる人物を前にしたときのように、ただ、「信じられない! でも、信じるほかない。うーん、すごい!」と、こちらもまた支離滅裂なことをつぶやかざるをえないのだ。ひとことで言えば、机竜之助の不条理は、かくあるほかにありようはないと言えるほどに「必然的」な不条理なのであり、まさにこれゆえに、日本文学の古典となりえたのである。
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とはいえ、『大菩薩峠』が机竜之助という主人公だけで完結している物語であったのなら、いいかえれば、諸家がつとに指摘するように、「竜神の巻」あたりでピリオドが打たれていたのなら、たしかに物語としてのまとまりはできたかもしれないが、果たして、これほどの小説的生命を保ちえたかどうか? すなわち、机竜之助の醸し出す不条理だけが『大菩薩峠』を「変な小説」にするのに貢献していたのであったならば、『大菩薩峠』はたんに風変わりな小説というだけで、時代を超える「変さ加減」はもちえなかったに相違ない。
では、『大菩薩峠』が、前代未聞の「変な小説」となったのは、いったいどの巻からなのか? 多くの批評家は、「間の山の巻」で、お玉と米友が登場したあたりで、全体の雰囲気が一変すると指摘しているが、私としては、むしろ「伯書の安綱の巻」を境にして、「変さ加減」に拍車がかかると見ている。なぜなら、この巻で、『大菩薩峠』のもう一人の主人公、お銀様が姿を現すからだ。
お銀様。もし、この名前を耳にしただけで、人間の好奇心のもっとも根源的な部分、つまり、怖いもの見たさというやつを刺激されて、瞳孔が拡大し、鼻孔が膨らみ、息づかいが荒くなり、心拍数が増え、喉がカラカラに乾いてくるなら、その人は『大菩薩峠』の本当のファンであり、この小説の「変さ加減」を心から堪能できる数少ない「通の者」である。私などは、同志さえあつまれば、「お銀様ファン・クラブ」を結成したいと思っているぐらいである。それほどに、お銀様というキャラクターは素晴らしい、かつて、これほど「変な」キャラクターを創造した作家がいるだろうか?
(次ページに続く)
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