書評
『フォレスト・ガンプ』(講談社)
ガンプ! もっと、アホになれ!
『フォレスト・ガンプ』(ウィンストン・グルーム著、小川敏子訳、講談社)を読んだ。最初に結論からいうと、これはいろんなベストセラーからよさそうなところをひっぱってきた本だなと思った。タイトルの『フォレスト・ガンプ』からしてジョン・アーヴィングの『ガープの世界』みたいだなあと思ったら果たせるかなアーヴィングっぽいプロレスシーンが出てきたり、ちょっと『アルジャーノンに花束を』っぼかったり、ベトナム戦争を描いたところではヘラーの『キャッチ=22』やオブライエンの『カチアートを追跡して』を頭の隅に入れたような書き方をしていたりして、いや目配りのきいた作者だなあと感心した。別に他の作者のいいところを輸入するのはわるくないので、どんどんやればいいのだけど、アーヴィングやヘラーに比べたらまるで「薄味」と感じる読者もいるかもしれない。けれど、この小説の場合、主人公の「ぼく」のIQは70に少し足りないぐらいで「頭がわるい」という設定になっているので、なにを書いても「薄味」でなきゃおかしいのだ。ぼくは、昔から「頭がわるい」人間を主人公にした小説には深甚なる興味を抱いている。彼を主人公にするのは実に小説向きの手法のひとつで、「頭がわるい」人間はものごとを単純に見る。ものごとは単純に見るほど日常生活で見えるものと違って見えてくる。それがなにより小説の醍醐味なのだ。なにしろ、最初の近代小説『ドン・キホーテ』の主人公ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャことアロンソ・キハーノは自他共に認める「頭のわるい」(というより彼の場合は「頭の働きが通常の人間とは異なっている」というべきかもしれないが)人間だったのだ。そういう「頭のわるい」人間は小説の主人公の王道なのである。『フォレスト・ガンプ』の作者もそのことには気づいているらしく、主人公のガンプに「頭がわるい人間のことならまかせてくれ。くわしいと自慢できるのはこれについてくらいだ。本をたくさん読んだからね」と、ドストエフスキーの『白痴』や『リア王』やフォークナーの描いたベンジーについて言及させている。
「本のなかで馬鹿と言われている人間は、ばか呼ばわりする人間たちよりも絶対にりこうだ。それはまったくその通り。頭のわるい人間ならすぐわかることさ」
それはまったくその通りなのかもしれないが、そういうまっとうなことをいっちゃうところに『フォレスト・ガンプ』の欠陥があるのではないか。つまり、フォレスト・ガンプは日常生活をおくるには充分「頭がわるい」かもしれないが、小説の主人公としては充分「頭がわるい」とはいえないのである。
フォレスト・ガンプは体が大きくて性格が優しくてややIQは低いが、まったく普通の人間というべきであり、その行動によって他の人間を害しようという意志はない(し、概ね安全である)。同じ「アホ」でも、ドストエフスキーの「アホ」は、他の人間の魂を暗黒に突き落とす。武者小路実篤の「アホ」は筋金入りで、フォレスト・ガンプよりIQは高いが、そのIQの高い分だけ余計「アホ」に見えるという特異な例で、絶対万人の感動を呼んだりはしない。いや、テリー伊藤の演出された「アホ」くささを横に置くなら、フォレスト・ガンプはどうしても良心的インテリに見えてしまう。
タカハシはけっこう楽しく『フォレスト・ガンプ』を読んだが、最後にどうしてもこう呟いてしまうのだけは止めることができなかったのだ。
「ガンプ! もっと、アホになれ!」
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