書評
『日の名残り』(早川書房)
堅物の心が揺れるとき
融通のきかない人、堅物は僕の周りにもけっこういる。いや、いた。まず僕の祖父と父がそうだった。大賀蓮(おおがはす)という古代蓮の普及に一生を捧げた従兄もそうだったが、みんな死んでしまった。彼らを僕はなつかしさをこめて堅物と呼ぶ。堅物の心は動揺しない。心に義とするものがあるから甘言に動じない。ごまかされない。それに引きかえ小説の主人公の心はたえず振幅はげしく揺れ動くのをもって旨とする。『赤と黒』のジュリアン・ソレルしかり三四郎もまたしかり。主人公のこの心の動きと小説内を流れる時間とが巧みに重なりあって描かれるとき、われわれは一篇の物語に感動する。もしこういった近代小説の常套に逆らって、堅物を物語の主人公とし、おまけにその主人公を物語の唯一の語り手とした場合、どうなるか。
英国貴族社会伝統の執事という職業に身も心も捧げ尽くした老人の物語が、カズオ・イシグロの『日の名残り』だ。執事はイギリスにしかおらず、他の国にいるのは召使にすぎないと信じて疑わず、偉大な執事たることをモットー(義)としてきた老いたる「私」は、しかしいまやその仕える相手はお屋敷を買い取ったアメリカ人実業家だ。
「私」はある日、この主人から数日の休暇とフォード車を貸し与えられる。そこで「私」は二十年前、お屋敷華やかなりし頃、また「私」自身の執事人生で最も充実していた時期、女中頭をしていた、ミス・ケントンなる女性を訪ねてみようと旅に出る。もちろん「私」はなつかしさにかられて旅に出るのではない、と執拗に言い張る。最近、突然まいこんだ彼女の手紙によれば、その後の結婚生活がうまくいってないらしいこと、そこでもしかしたら管理が行き届かなくなったお屋敷に復帰してもらえるのではないか、という純粋に職業的意識から発案された旅なのだと説明される。
執事にとって、主人への忠節、職業への絶対の傾倒がすべてであり、それ以外の感情、たとえばなつかしさ、肉親愛、男女の愛などは顧みてはならないものなのだ。まさに動かぬ堅物そのものの「私」なのだが、イシグロはこの「私」をおもむろにフォードに乗せ、ミス・ケントンの住むイギリス西部の町へむかって動かしてゆくのだ。
この旅の途中で、「私」の身と心に何が起きるのか。半世紀以上もお屋敷から一歩も出たことのなかった「私」。もしそこを出なければ去来しようのなかったくさぐさの記憶と、それによって喚起される「私」の思索と感情の綾が、みごとな語り口と巧みな構成で綴られてゆく。
小説内における「私」の旅という空間の移動と時間の流れが、しかしジュリアン・ソレルのような青年の揺れる心によってでなく、偉大な執事とは何か、と旅の途次も執拗に問いつづける堅物の心によって実行されるとき、そこに僕は思いもかけなかった息詰まる緊迫感が生じて、手に汗握ったのだった。
執事の仕事にかまけ、宴会の行われているホールの屋根裏部屋で息を引き取る父親の臨終にも立ち会わず、ミス・ケントンの愛にも頑な心で応えなかった「私」が、ではなぜ今ごろになって、それらについて語ろうとするのか。「私」はミス・ケントンとほんとうに会えるのか。はたしてどんな出会いになるのか……。われわれは稀有ともいえるとびきり上品なサスペンスを味わうことになる。
ラスト、「私」が行む夕日の桟橋の場面は、堅物の心とは程遠い、軽くて無節操な僕でも、あの世までも持ってゆきたくなるほどの美しさだ。
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