書評
『随時見学可』(みすず書房)
揺らぐ身体感覚で描く聖なる光
数日まえのことだ。都電荒川線の「荒川遊園地前」で降り、ぷらぷら歩くと隅田川の土手に出た。護岸壁沿いにまっすぐ遊歩道が伸びており、西日を浴びて歩きはじめたら止まらなくなった。ところがそのうち犬一匹さえ消えてしまい、道は細るいっぽうだ。かまわず歩きつづけると、とつぜん道が断ち切れた。川の流れは先へゆくのに、足は進められない。領域を奪われて呆然(ぼうぜん)とするのだが、西日は輝きの純度を高めるばかりだ。日常には、いっさいの介在を許さない聖なる瞬間が訪れることがある。ぽんと宙に放りだされたような、またはあずかり知らぬ断層に滑り落ちて真空地帯に侵入したような。
この十編の小説は、そんなとき溶けて揺らぐ「わたし」の身体感覚と感情に、言葉でかたちを与えようという試みである。
ただし、「わたし」の身体をまごつかせるのはありきたりの風景だ。見慣れたはずの近所の公園、いつもの横断歩道、間借りした一室。不意にごくわずか、または幻想めいて歪(ゆが)むさまは都市や写真、美術の評論活動をつづける著者の網膜に映りこんだ断片でもあるだろう。
「随時見学可。どうぞいつでもお入りください」
カヴァーのサーモンピンクの奇妙な題字が、ゆらゆらと誘いをかけてくる。指を伸ばしてページをふたたびめくると、「足の裏がぐじゅっと濡(ぬ)れる」部屋とか、「熱い流動物になった」身体とか、夫の「寝ている姿を眺めては死んだときの予行演習をしていた」視線とか、行間からリアルな気配が立ち上がる。
なるほど、そうきたか。小説世界が用意した作用に気づく。(書かれた「わたし」の身体感覚は、読むわたしにすでに浸<し>みこんでおり、ふたつの領域はもはや境界線を失いかけている)
たとえ相手が言葉であれ、身体感覚というものは、滲(にじ)みあう関係を結んだとき聖なる光に包まれる。その光を視(み)た者は、もうあともどりはできない。
かんがえてみれば、「随時見学可」、曖昧(あいまい)なのにこれほど揺らぎを与える入りぐちはないのだった。
朝日新聞 2009年6月21日
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