書評
『Green Bench』(河出書房新社)
ぼくが演劇青年だった頃
ぼくが(ノートにではなく)発表する目的で書いた最初の作品は戯曲で、中学三年の時だった。それからもぼくは戯曲を書き、ついでに演劇部を作り、演出し、学園祭で上演した。もちろん、舞台にも出た。当時(ぼくの周りで)流行っていたのはハードな前衛劇だった。セリフなし、演技なしなんてのはザラだった。そういうやつは御免こうむりたかったので、ぼくが書いたのはコントとダジャレが一杯の前衛的な「8時だヨ!全員集合」のようなものだった。いまから考えると、ちょっと時代を先取りし過ぎたか。演劇ブームがもう十年早かったら、そのまま劇をやっていたかもしれないな。こんなことで威張っても仕方ないが、ジャリの超絶的・ウンコ的ケツ作(「クソ」だの「ケツ」だのエゲツナイ言葉が乱舞するので有名)『ユビュ王』の日本初演はわたしたちがやった――といっても、我が同級生たちはぜんぜんセリフを覚えてくれないので、簡略化し、パロディにしなけりゃならなかった。ご存じの方もいらっしゃるだろうが、『ユビュ王』は元々『ハムレット』のパロディなので、それをパロディにしたら『ハムレット』そっくりになっちゃったのだった。
そういうわけだから、戯曲はずいぶん読んだ。ピンター、ベケット、ウェスカー、ジュネ、アラバール。でも、いちばん好きだったのはジャン・ジロドウ(とジャン・アヌイ)……。なんだ、前衛ともお笑いとも関係ないじゃないかと思われるかもしれないが、趣味なんだから仕方ない。ジロドウはもう好きで、好きで、戯曲も小説も手に入るものは何でも読んだ。名作『オンディーヌ』は何度読んでもウルウルしたっけ。セリフは丸暗記したし、もちろん舞台の『オンディーヌ』(加賀まり子のオンディーヌ、この世のものとも思えぬほど可愛かったよなあ)も見た。そんなこんなで演劇をやって得た結論が「やっぱりシェイクスピアはいい!」というものだった。あらら。
時は流れ、わたしが現在やっているのはひとりでできる仕事だが、戯曲はいまでも読む。ゆっくりと読む。セリフを呟き、ト書きに表された作者の意図を考える。いや、なにより、自分が演出家か役者になったつもりで読んでしまう。もちろん、柳美里の『Green Bench(グリーンベンチ)』(河出書房新社)もそうやって読んだのだった。
『Green Bench(グリーンベンチ)』はひとつの壊れた家庭の物語である――なんてことを書いてもなんにもならないな。場所はある女子高のテニスコートで、母と娘と息子があてもなくテニスをやりながら、彼らが抱えている問題について話しつづける――というようなことを書いても、読者としては「そうですか」と返事をするしかないだろう。ほんと、戯曲を説明するのは難しい。かつて、演劇青年だった、ぼくの正直な感想は、
「この作品はうまくいってる」
というものだ。作者には描きたい明確なものがあり、それを細心の注意を払って戯曲化したことはぼくにもわかる。たぶん、この舞台は哀しくも優しさに満ちたものになっただろう。そして、ぼくはこうも考えた。この戯曲の登場人物たちは、もっと偉大な、複雑で正確なセリフをしゃべりたいと願っているのではないか。たとえば、シェイクスピアの作品の登場人物のように。彼らはシェイクスピアの人物たちより複雑な内面を持っている。だが、セリフは遥かに簡潔で断片的にしかならない。彼らが哀しく見えるのは、たぶんそのためなのである。
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