書評
『戦中派天才老人・山田風太郎』(筑摩書房)
続・早く老人になりたい
高校生の頃に、わたしの友人たちの間では「二十四歳で死ぬ」という構想が流行していた。ランボー、ロートレアモン、ポール・ニザンの作品が好まれ、同時に彼らの生涯もたいへん愛好(?)された。二十四歳で亡くなったロートレアモンを除くと、ランボーもニザンも別に夭逝したわけではなかったが、文学との劇的な訣別(ランボー)、青春との別れを描いた傑作『アデン、アラビア』(ニザン)の存在がそれぞれの二十四歳頃だったことから、「二十四歳」が到達すべき目標と見なされたのだった。
しかし。時は、時は、過ぎてゆく。
二十四歳を越えた時には深い感慨があった。三十歳を越えた時には、「おお、まだ何もやってない……」という深い焦慮があった。ところが、四十歳を越えた時には、感慨なんかなかったね。「あっ、そう」てなもんだった。現在、わたしの願いはただ一つ。早く老人になりたい――それだけである。
『戦中派天才老人・山田風太郎』(関川夏央著、マガジンハウス)を読むと、著者の関川さんも、どうやら「早く老人になりたい」という秘かな願望を隠し持っているようである。しかし、いくら「老人になりたい」といっても、どんな老人でもいいってわけじゃあない。「理想の老人像」があるはずではないか。関川さんが、長時間にわたってインタヴューし、その発言の再構成を試みた山田風太郎こそ、関川さんにとって「理想の老人像」の一つであったのだ。いや、わたしにとってもまた。
一回ある。腰痛で一週間入院したことがある。しかし、ただ寝ていただけで、なにか特別に治療したというわけじゃない。原因は老化そのものという腰痛だから、痛いには痛いが、ただ寝ているしか手はなかった。
ともかく面倒臭がり、他に比類ない横着者だ。人生最大の望みが、懐手して何とか気楽に暮らしたいというのだから。
山田風太郎は体にいいことは一つもやらず好きなことだけをし天才的な作品を書き、老化し、死に近づいてゆく自分自身について淡々とかつほとんど冗談のように語る。この本を読んで感動できるようになったら、あなたはもう(年齢は幾つであろうと)人生の折り返し点を通過したということである。 さて、老化の極致の一つは「ボケ」である。ここには、その例として武者小路実篤の最晩年のエッセイが引用されている。これはもう涙なしには読めない「傑作」だ!
僕は人間に生れ、いろいろの生き方をしたが、皆いろいろの生き方をし、皆てんでんにこの世を生きたものだ。自分がこの世に生きたことは、人によって実にいろいろだが、人間には実にいい人、面白い人、面白くない人がいる。人間にはいろいろの人がいる。その内には実にいい人がいる。立派に生きた人、立派に生きられない人もいた。しかし人間は立派に生きた人もいるが、中々生きられない人もいた。人間は皆、立派に生きられるだけ生きたいものと思う。この世には立派に生きた人、立派に生きられなかった人がいる。皆立派に生きてもらいたい。皆立派に生きて、この世に立派に生きられる人は、立派に生きられるだけ生きてもらいたく思う。皆、人間らしく立派に生きてもらいたい。
すごい、としかいいようがない。こういう文章をさらさら書けるようになるまで生きるのも悪くないと思う。問題は注文が来るかどうかだけだが。
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