書評
『修羅の都』(文藝春秋)
優しいだけでは無力 修羅にならなくては
私は一応、鎌倉時代の政治史、また鎌倉幕府の根本資料である『吾妻鏡』の専門家の一人である。だが、北条政子という人物はどうにも分からない。自ら産んだ男子を二人とも政争の中で失った、あるいは自らすすんで葬り去った彼女について、研究者の評価は二つに分かれる。肉親の情を殺して武士の政権を守り抜いた有能な政治家か。父の北条時政、弟の義時に利用され、北条家の覇権確立の道具となった哀れな女か。
本書の解釈は断然、前者である。政子は頼朝をもっともよく知る人物であり、彼の理念に共鳴し、ともに修羅の道を進む覚悟をもつ。そう、修羅である。本書は義経に比べて語られることの少ないもう一人の弟、源範頼(みなもとののりより)に無類の好人物という位置づけを与え、人を思いやることのできる彼が滅びていくさまを厳しい筆致で描いている。鎌倉幕府という新しい政権が生まれいでようとするとき、人は優しいだけでは無力なのだ。修羅にならなくては、理想は実現しない。
当然の疑問が生じてくる。
「頼朝が流された場所は、政子の故郷のすぐそばだった。そんなに都合良く、最大の理解者と巡り会えるものだろうか?」
作者は答えるだろう。この夫婦は認め合い語り合って、二人三脚で成長していったのだ。あるいは、そうした奇跡があったからこそ、「幕府=武士の政府」という全く新しい統治体が呱々(ここ)の声を上げることができたのだ、と。
『吾妻鏡』は源頼朝の死の前後を欠いている。これは元々書かれなかったのか、それとも後世、そこだけが失われたのか。本書はその空白を劇的な物語に仕立てた。私のように頼朝好きには、読むのが辛(つら)いほどの緊迫感がある。それでも読み出したら止まらない。歴史好きにはたまらない一冊の登場である。
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