書評
『女たちの約束―M・T・ツルーと日本最初の看護婦学校』(人文書院)
ニッポン看護婦誕生史
近代女性の伝記も「青鞜」を中心にブームが始まり、多くの伝記が書かれた。最近では無名の女性の生き方に焦点をあてた地域女性史の広がりが目立つが、一方、大庭みな子『津田梅子』、久野明子『鹿鳴館の貴婦人大山捨松』といった、明治初期に欧米文化を受けとめ、異文化間コミュニケーションに寄与した女性の伝記も注目されている。亀山美知子『女たちの約束』(人文書院)は一八七四(明治七)年、切支丹禁制の高札が撤去された翌年、キリスト教伝道のため派遣されて来日したマリア・T・ツルーとその女性の同志が、日本初の看護学校を設立する苦難を描く。『近代日本看護史』で山川菊栄賞を受けた著者の筆は、地味ではあるが正確で、さすがにテーマを自家薬籠中の物としている。
夫を亡くし孤児アニーの手を引いて横浜港に着いたツルーは、原女学校、新栄女学校を経て、東京の麴町中六番町にあった桜井女学校(いまの女子学院の前身)の経営を引き受ける。当時の在学生は、洋服と束髪で学んだ昔を、「髪を結う時間と手数が省けてほんとうに助かりました」と振り返る。上流女性に混じり、浅草の親分のおかみさんが二人いて、お互いあねさんと呼んでいた、なども神の前には平等の校風を髣髴(ほうふつ)とさせる。
さらにツルーは先輩リディア・ベントンの遺志を継いで、日本で看護婦養成学校を設立しようと本国に働きかけた。フィラデルフィアやニューヨークの女性伝道協会はこれを助けようとするが、在日宣教師ヘボンらは時機尚早と反対する。「訓練を受けた看護婦を雇うのは金持ちができるぜいたくである。日本は看護婦を必要とする文明程度にはない」。こうした反対に対しツルーは「家の中で病人が出たとき、日本の婦人たちは快適さと世話に対して喜んで支払う意志がある」と反論する。何通もの熱情にあふれた手紙が船便で太平洋上を行き来した。ツルーもさぞかしはがゆかったであったろうが、信仰と強い意志が彼女を支えた。
アメリカに収蔵されていた長老教会の記録、そして手書きの英文書簡を多数解読し、資料として使いこなした熱情も打たれるものがある。そこには女権拡張の波の中で女子教育に燃える女性宣教師と、あいかわらず男尊女卑の男性宣教師との確執があった。
ようやく一八八七(明治二十)年、桜井女学校内に看護婦学校が開設されるが、最初は専門教師がおらず、「看護婦の心得」を訳しながら見たこともない医療器具を想像するしかなかった。洋式便器をツルーに「これの使い方を見せて下さい」と聞いた人もいた。
しかし赴任した看護学教師アグネス・ヴェッチが帝大医科大学のお雇い教師となり、桜井女学校の生徒とともに大学に乗り込み、看護婦の社会的使命に気づかせる過程は感動的である。そしてツルーの遺志を、こんどは日本初の女性医学留学生岡見京が引き継ぎ、女性と子どものための療養所衛生園を実現する。この女性たちの連帯結束が本書の縦の糸となっている。
一般読者にはややわずらわしいほど多くの人名が登場するが、年表や参考文献も整い、写真も豊富で、まずは今後活用されるべき本といえよう。また作家、芸術家にくらべ地味な分野だが、岡見京や看護婦第一号大関和についても伝記が編まれることを期待したい。
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