書評
『「つながり」の戦後文化誌: 労音、そして宝塚、万博』(河出書房新社)
音楽はコミュニケーション・ツールだと言われる。ツールとしての役割は終わったという論調もよく見かける。紅白には知らない歌手ばかり出てるし、みんなが口ずさめる歌なんてないじゃないか云々(うんぬん)。だが、音楽によって“つながる”とはどういうことだろうか?
文化が人々を“つなげる”基盤となった例は過去たしかに存在した。そのメカニズムを解明し、現在にも通用する普遍的な答えを探すこと。本書が目指すのはそこだ。
勤労者音楽協議会(労音)は、1960年代前半には60万人の会員を擁した、日本最大の音楽鑑賞団体だ。テレビ普及以前、すなわちマスコミュニケーション時代が訪れる以前に、音楽を媒介(メディア)として急激に巨大化した組織である。
母体は大阪。1949年11月に「良い音楽を安く聴く」という理念を掲げ誕生した大阪労音は、右肩上がりに会員数を伸ばし、東京を含む各地で次々に支部が発足して瞬く間に全国的組織となったが、60年代半ば以降、急速に会員を失い衰えていった。
労音は戦後、若い労働者たちを“つなげる”媒介(メディア)として隆盛を極めたわけだが、その発祥である宝塚歌劇からフォーク、大阪万博、そして雑誌『ミュージック・マガジン』へという、一見、関係の薄い文化同士を“つなげる”媒介(メディア)でもあった。いわば二層の“つながり”のうねりが、労音という運動体の実体だったのである。
ここまではよくある歴史解釈に過ぎない。著者の独創は、この運動体を分析する鍵に「教養とキッチュ」という概念の対立を持ち込んだことだ。労音は当初クラシック(教養)普及を目的とし、ポピュラー音楽は低俗な娯楽と退けていたが、容認せざるを得なくなる。クラシックへの足掛かりと考えたのだが、労音の顔・ペギー葉山のミュージカルなど、労音で真に革新的なものは、両者の狭間、キッチュから生まれたのだった。
教養が没落しキッチュがはびこると静的に捉えられがちな構図を、著者は、機能の異なる文化間におけるダイナミックな相互作用と捉え直す。とりわけキッチュを「教育力」のある装置と見る観点は斬新であり、今に通じる普遍性を持つだろう。
文化が人々を“つなげる”基盤となった例は過去たしかに存在した。そのメカニズムを解明し、現在にも通用する普遍的な答えを探すこと。本書が目指すのはそこだ。
勤労者音楽協議会(労音)は、1960年代前半には60万人の会員を擁した、日本最大の音楽鑑賞団体だ。テレビ普及以前、すなわちマスコミュニケーション時代が訪れる以前に、音楽を媒介(メディア)として急激に巨大化した組織である。
母体は大阪。1949年11月に「良い音楽を安く聴く」という理念を掲げ誕生した大阪労音は、右肩上がりに会員数を伸ばし、東京を含む各地で次々に支部が発足して瞬く間に全国的組織となったが、60年代半ば以降、急速に会員を失い衰えていった。
労音は戦後、若い労働者たちを“つなげる”媒介(メディア)として隆盛を極めたわけだが、その発祥である宝塚歌劇からフォーク、大阪万博、そして雑誌『ミュージック・マガジン』へという、一見、関係の薄い文化同士を“つなげる”媒介(メディア)でもあった。いわば二層の“つながり”のうねりが、労音という運動体の実体だったのである。
ここまではよくある歴史解釈に過ぎない。著者の独創は、この運動体を分析する鍵に「教養とキッチュ」という概念の対立を持ち込んだことだ。労音は当初クラシック(教養)普及を目的とし、ポピュラー音楽は低俗な娯楽と退けていたが、容認せざるを得なくなる。クラシックへの足掛かりと考えたのだが、労音の顔・ペギー葉山のミュージカルなど、労音で真に革新的なものは、両者の狭間、キッチュから生まれたのだった。
教養が没落しキッチュがはびこると静的に捉えられがちな構図を、著者は、機能の異なる文化間におけるダイナミックな相互作用と捉え直す。とりわけキッチュを「教育力」のある装置と見る観点は斬新であり、今に通じる普遍性を持つだろう。
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