書評
『極西文学論―West way to the world』(晶文社)
現代文学をめぐるこの批評は「歴史」と「女性」を見落とすことで成り立っている。「歴史」とは、戦後日本文学“史”のことだ。
にもかかわらず、読者は、戦後文学のメルクマール的な批評である江藤淳『成熟と喪失』のエコーを聞くに違いない。アメリカと日本の関係から文学を見るという主題はもちろん、象徴性を持たせたアメリカの歌を冒頭に置く構成までが相似している。江藤は、小島信夫『抱擁家族』で、アメリカ人=「近代」の侵入(妻との姦通)により「自由」に晒されてしまった男の戸惑いを「しかし、いったいどこへ(行けばいいのか)?」と代弁したが、仲俣もまた、村上春樹『ノルウェイの森』の「僕」の言葉を受け「では、私たちは本当に、どこにいるのだろう?」と書く。見失われているのは「言葉」であり、基盤を揺るがしているのは端的には「経済」である(「女性」=「母」の問題だけが抜け落ちている)。
著者自身「いかがわしい」という「極西文学」は、江藤淳が黙殺した村上春樹を起点とする。おそらく仲俣は『成熟と喪失』を念頭に置いてはいないと推測されるが、断絶と裏腹な問題の通底を表象するのに「極西文学」という言葉が果たして妥当であるかについては、大いに議論がなされるべきだろう。
にもかかわらず、読者は、戦後文学のメルクマール的な批評である江藤淳『成熟と喪失』のエコーを聞くに違いない。アメリカと日本の関係から文学を見るという主題はもちろん、象徴性を持たせたアメリカの歌を冒頭に置く構成までが相似している。江藤は、小島信夫『抱擁家族』で、アメリカ人=「近代」の侵入(妻との姦通)により「自由」に晒されてしまった男の戸惑いを「しかし、いったいどこへ(行けばいいのか)?」と代弁したが、仲俣もまた、村上春樹『ノルウェイの森』の「僕」の言葉を受け「では、私たちは本当に、どこにいるのだろう?」と書く。見失われているのは「言葉」であり、基盤を揺るがしているのは端的には「経済」である(「女性」=「母」の問題だけが抜け落ちている)。
著者自身「いかがわしい」という「極西文学」は、江藤淳が黙殺した村上春樹を起点とする。おそらく仲俣は『成熟と喪失』を念頭に置いてはいないと推測されるが、断絶と裏腹な問題の通底を表象するのに「極西文学」という言葉が果たして妥当であるかについては、大いに議論がなされるべきだろう。
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