書評
『山猫』(河出書房新社)
フェデリコ・フェリー二の映画『甘い生活』のなかに、古い血統を誇るイタリア貴族の後裔が、数世紀をへた薄暗い大理石の城館のなかで、気ちがいじみた倦怠のはての乱痴気騒ぎにふける場面があって、わたしは、文化の重みに圧しひしがれたヨーロッパの本物のデカダンスとは、何というグロテスクなものであろうかと、つくづく感じ入ったことがあった。ランペドゥーサの『山猫』の読後感もまた、一口に言えば、それに近いものである。
むしろ、シチリアのぎらぎらした太陽と、どしゃぶりの雨を背景にして展開されるいささか古風な物語が、あの地中海周辺の昔ながらのエロティシズムと死の臭い、すなわち植物や動物の腐敗の臭いをふんだんにまきちらしていて、美しく感じられたくらいであった。
その美しさは、物語の後半、ポンテレオーネ邸での舞踏会の場面にいたって頂点に達するが、そこでは主人公は、ほとんど知的な誇りと愛他主義とが一つになったかのごとき、自己および世界の偉大な肯定に達している。それはひたすら衰滅を愛する官能主義的精神の、いわば最後の光輝ともいうべき抒情的な揚であって、「永遠をのぞけば、人間には何ひとつ憎む権利はないのだ」と考える主人公、ながい孤独と抽象的な思索になれたアマチュア天文学者ドン・ファブリツィオ公爵のうちに、わたしたちは、たとえばピコ・デラ・ミランドラのごとき、ルネサンス期の憂愁にみちた巨大な汎神論者の面影を見る。
かように、ただひとつ永遠を憎む権利のみを保留する貴族が、革命にも反動にも積極的に加担し得ないのは当然だろう。歴史的な連続、時間に対する闘いが、このサチュロスのような官能主義的精神には本質的に欠けているのだ。その意味で、『山猫』をプルーストの小説に比較するのは見当はずれというべきで、この小説では過去は大きな役割をしめているが、記憶は何ら重要なモメントをなしてはいない。過去はおのれを主張するために「怠惰」という特権のかげにかくれるのである。
しかし貴族社会のアラベスク風に精緻な描写が、一種の生物学的比喩をしばしば借りるまでに辛辣をきわめているという点では、プルーストに似ていないこともない。
なかでも公爵が舞踏会の席上、近親結婚と運動不足のため「脚が短かくなり、肌があれ、発音のきたなくなった小娘たちの群」を見て、「百匹ばかりの若い尾長猿がとんだりはねたりしている動物園の幻覚」をいだく件りは、グロテスクな超現実主義風の印象をもって、わたしに迫った。
「われわれは自分たちの息子や、たぶん孫たちのことを、真剣に心配するかもしれない。しかし自分たちの手で愛撫できるものを越えては、義務はすこしもない。だからわたしは一九六〇年の偶然の子孫たちがいったいどうなるかなどと、ほとんど気にかけていられない」という公爵の没落意識は、階級的な没落意識であると同時に、一個のエロス的人間の没落意識であって、おそらくあらゆる時代、あらゆる文化の生んだすぐれたデカダンス文学が、この二つの精神のなかの「死」に直面したのである。
まさに作者のいうとおり、「真の問題は、精神生活をそのもっとも崇高な瞬間において、死にもっとも似かよった瞬間において、生きつづけること」なのであろう。
わたしたちはスタンダール、トオマス・マン、モオリス・パレス以来、かかる地中海的風土のもとに育ったデカダンス文学に親しんでいるが、あの美しい『オーレリヤン』の作者ルイ・アラゴンが、かつてスタンダールやパレスを称讃したように、やはりこの『山猫』に最大級の讃辞を寄せているのを知って、わたしは微笑を禁じ得なかった。デカダンスは右翼左翼を超えて広いもののごとくである。
【この書評が収録されている書籍】
むしろ、シチリアのぎらぎらした太陽と、どしゃぶりの雨を背景にして展開されるいささか古風な物語が、あの地中海周辺の昔ながらのエロティシズムと死の臭い、すなわち植物や動物の腐敗の臭いをふんだんにまきちらしていて、美しく感じられたくらいであった。
その美しさは、物語の後半、ポンテレオーネ邸での舞踏会の場面にいたって頂点に達するが、そこでは主人公は、ほとんど知的な誇りと愛他主義とが一つになったかのごとき、自己および世界の偉大な肯定に達している。それはひたすら衰滅を愛する官能主義的精神の、いわば最後の光輝ともいうべき抒情的な揚であって、「永遠をのぞけば、人間には何ひとつ憎む権利はないのだ」と考える主人公、ながい孤独と抽象的な思索になれたアマチュア天文学者ドン・ファブリツィオ公爵のうちに、わたしたちは、たとえばピコ・デラ・ミランドラのごとき、ルネサンス期の憂愁にみちた巨大な汎神論者の面影を見る。
かように、ただひとつ永遠を憎む権利のみを保留する貴族が、革命にも反動にも積極的に加担し得ないのは当然だろう。歴史的な連続、時間に対する闘いが、このサチュロスのような官能主義的精神には本質的に欠けているのだ。その意味で、『山猫』をプルーストの小説に比較するのは見当はずれというべきで、この小説では過去は大きな役割をしめているが、記憶は何ら重要なモメントをなしてはいない。過去はおのれを主張するために「怠惰」という特権のかげにかくれるのである。
しかし貴族社会のアラベスク風に精緻な描写が、一種の生物学的比喩をしばしば借りるまでに辛辣をきわめているという点では、プルーストに似ていないこともない。
なかでも公爵が舞踏会の席上、近親結婚と運動不足のため「脚が短かくなり、肌があれ、発音のきたなくなった小娘たちの群」を見て、「百匹ばかりの若い尾長猿がとんだりはねたりしている動物園の幻覚」をいだく件りは、グロテスクな超現実主義風の印象をもって、わたしに迫った。
「われわれは自分たちの息子や、たぶん孫たちのことを、真剣に心配するかもしれない。しかし自分たちの手で愛撫できるものを越えては、義務はすこしもない。だからわたしは一九六〇年の偶然の子孫たちがいったいどうなるかなどと、ほとんど気にかけていられない」という公爵の没落意識は、階級的な没落意識であると同時に、一個のエロス的人間の没落意識であって、おそらくあらゆる時代、あらゆる文化の生んだすぐれたデカダンス文学が、この二つの精神のなかの「死」に直面したのである。
まさに作者のいうとおり、「真の問題は、精神生活をそのもっとも崇高な瞬間において、死にもっとも似かよった瞬間において、生きつづけること」なのであろう。
わたしたちはスタンダール、トオマス・マン、モオリス・パレス以来、かかる地中海的風土のもとに育ったデカダンス文学に親しんでいるが、あの美しい『オーレリヤン』の作者ルイ・アラゴンが、かつてスタンダールやパレスを称讃したように、やはりこの『山猫』に最大級の讃辞を寄せているのを知って、わたしは微笑を禁じ得なかった。デカダンスは右翼左翼を超えて広いもののごとくである。
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