書評
『居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)
生産的か非生産的かを誰も問うてなんかない
よく、忙しいビジネスマン向けの記事に「何もしない時間を作りましょう」みたいな文言があり、何もしないってどういうことだろう、と悩む。何もしないという状態などありえるのか。屁理屈と自覚しつつも、何かをする=生産的である、と規定すべきではないだろうと思う。人間の実力を計測する尺度として、生産できるかどうかが浮上すると、しんどくなる人たちが出てくる。活躍している人の中には、そこに鈍感すぎる人が少なくない。たとえば「保育士は誰でもできる仕事だから給料が安い」なんて言ったりする。呆れる。ふざけるんじゃない。沖縄のデイケア施設で働くことになった若き心理士による一冊は、「ただ、居る、だけ」の世界のさざ波が綴(つづ)られる。だが、その波にはいくらだって種類がある。そこにいる多くの人は「何かふしぎなことをしている人ではなく、何もしていない人」だった。だから自分は「とりあえず座っている」のが仕事だった。
とにかく「いる」。「『いる』ことを目的として『いる』」デイケアという場に流れる反復性に体を慣らしていく。「本当の自己」といった命題は、力強い自分が前提になりがちだが、本来は「無防備な自分」なのではないか。とにかくそこに「いる」ことを受け止められるようになった心理士は、「暇と退屈未満」の環境で、遊びの可能性を探し求める。自己と他者が重なり、誰かに依存し、身を預ける。そこに遊びが生まれる。
「ただ、いる、だけ」がどんな価値を持つのか、「うまく説明することができない」。でも、その価値と、それを支える価値を知っている。「その風景を目撃し、その風景をたしかに生きたから」。生産する=役に立つという規定を疑う。著者の叫びの熱量に任せ、一気に読んだ。
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