書評
『きことわ』(新潮社)
筋というほどの筋はない。子供のころに葉山の別荘で夏をともに過ごした貴子と永遠子が二十五年後に再会するという状況があるばかりだ。
貴子が母、叔父と夏に訪れていた別荘に、永遠子の母が管理人として雇われており、永遠子も同行していた。二人は姉妹的とも同性愛的ともつかない密接な関係を築くが母を亡くした八歳を境に貴子は別荘から消え、十五歳の永遠子と疎遠になる。取り壊しの連絡を受けた永遠子が別荘の整理に赴き二十五年ぶりの再会をする。以上が「状況」で、永遠子と貴子の視点から語られるが、二人は手段であって目的ではない。主人公というよりもむしろ媒体に近い。
真の主人公は「時間と夢と記憶」だ。「きこちゃん」「とわちゃん」と呼び合う二人は、七歳の差がありながら、どちらがどちらか判然としない溶け合ったもののように描かれる。現在と過去は混淆(こんこう)し、夢と記憶は境目を失い属人を解かれて生者や死者や家や場所のあいだを転移する。永遠子の夢で始まった一篇(ぺん)は「夢をみない」貴子が初めて夢を見たところで閉じる。極端にはすべて貴子の夢だったとも読めるが、そうした解釈に意味があるとも思えない。
なぜなら本書の価値は「時間と夢と記憶」を操り一篇に仕上げた技術とそれを支える文体にあるからだ。実際、芥川賞の選評でももっぱら技術と文体が称賛されていたし、デビュー作『流跡』と第二作「家路」を読めば、作者の興味が時空や夢や記憶の操作に傾いていることが確かめられる。
「前衛」という言葉をつい浮かべると同時に、懐かしいものを読んだ気分も立つ。私小説という“古い”方法に就く西村賢太と、前衛を想起させる“懐かしい”技術を採る朝吹が、芥川賞同時受賞というかたちで並んだ事実は文学の現在をよく象徴していた。むろんそれは週刊誌などに躍った「格差」うんぬんとは何ら関係のないことだ。
貴子が母、叔父と夏に訪れていた別荘に、永遠子の母が管理人として雇われており、永遠子も同行していた。二人は姉妹的とも同性愛的ともつかない密接な関係を築くが母を亡くした八歳を境に貴子は別荘から消え、十五歳の永遠子と疎遠になる。取り壊しの連絡を受けた永遠子が別荘の整理に赴き二十五年ぶりの再会をする。以上が「状況」で、永遠子と貴子の視点から語られるが、二人は手段であって目的ではない。主人公というよりもむしろ媒体に近い。
真の主人公は「時間と夢と記憶」だ。「きこちゃん」「とわちゃん」と呼び合う二人は、七歳の差がありながら、どちらがどちらか判然としない溶け合ったもののように描かれる。現在と過去は混淆(こんこう)し、夢と記憶は境目を失い属人を解かれて生者や死者や家や場所のあいだを転移する。永遠子の夢で始まった一篇(ぺん)は「夢をみない」貴子が初めて夢を見たところで閉じる。極端にはすべて貴子の夢だったとも読めるが、そうした解釈に意味があるとも思えない。
なぜなら本書の価値は「時間と夢と記憶」を操り一篇に仕上げた技術とそれを支える文体にあるからだ。実際、芥川賞の選評でももっぱら技術と文体が称賛されていたし、デビュー作『流跡』と第二作「家路」を読めば、作者の興味が時空や夢や記憶の操作に傾いていることが確かめられる。
「前衛」という言葉をつい浮かべると同時に、懐かしいものを読んだ気分も立つ。私小説という“古い”方法に就く西村賢太と、前衛を想起させる“懐かしい”技術を採る朝吹が、芥川賞同時受賞というかたちで並んだ事実は文学の現在をよく象徴していた。むろんそれは週刊誌などに躍った「格差」うんぬんとは何ら関係のないことだ。
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