書評
『捕虫網の円光―標本商ル・ムールトとその時代』(中央公論社)
いまでは満員電車の吊革にぶらさがるサラリーマンとなっているあなたも、本書の冒頭近くに置かれた次の素晴らしい文章を読んだら、まちがいなく少年の日の、あの至福の一瞬を思い出すにちがいない。
少年は成長し、たいていはこの時の感動を忘れる。だが、なかには、この「捕虫網の円光」に永遠に魅せられてしまう人もいる。著者はまちがいなくこうした一人だが、その著者が昆虫採集の偉大なる先人として愛情をこめて肖像を描き出したフランス人標本商ル・ムールトも、少年の日に、「彼の人生の最大の幸福の瞬間を味わった」がために、昆虫の採集に一生を捧げることになった人物だった。
一八九七年、土木技師として赴任する父親にしたがって当時囚人の流刑地であった仏領ギアナにおもむいたル・ムールトは、人のいやがるジャングルが、自分にとっての楽園であることを発見し、自分もそこの役人となることを決意する。毒蛇や猛獣のひそむジャングルの奥地は、逆にル・ムールトにとっては、熱帯の美麗な蝶や巨大な昆虫が思いのままに採集できる願ってもない任地だった。なにしろ、流刑地の役人なので、昆虫採集の助手として囚人を自由に使うことができる。さらに、様々に工夫を凝らした夜間採集や囮(おとり)採集のおかげで、珍種の蝶や昆虫がおもしろいように採れる。こうして捕獲した昆虫をヨーロッパの収集家に送って財を築いたル・ムールトは、刑期を終えた囚人たちが作った共同体に採集作業を委託し、パリに念願の昆虫標本店を開く。ロスチャイルドを初めとする世界的な収集家や各地の博物館が南米産の美麗なモルフォ蝶や巨大な甲虫をコレクションに加えることができたのは彼のおかげである。だが、第二次大戦の直前に仏領ギアナの流刑地が廃止され、標本商の栄光は終わりを告げる。ル・ムールトも、多くの「虫屋」の例にもれず、家庭的には恵まれない晩年を送ったという。
このように、採集人・標本商としてのル・ムールトの一生は、それ自体でも、少年王者牧村眞吾のような夢や冒険と、コレクター特有の珍談奇談に満ちているが、著者は、いっぽうで、仏領ギアナの徒刑場の風俗について語るのも忘れない。そこには、役人たちのハウス・ボーイをつとめる模範囚もいれば、足鎖をはめられた悲惨な重罪人もいる。ル・ムールトは、悪魔島の独房に閉じ込められたドレーフュス大尉の郵便物を検閲する作業を命じられたりする。ル・ムールトの一生の物語が、著者の旺盛な好奇心と結び付いて、そのまま、熱帯植民地というもう一つのフランスの巧まざる描写となっている。
しかしながら全編を通じて読者を魅了してやまないのは、なんといっても捕虫網の「円光」に捕らえられたル・ムールトの昆虫採集の情熱と、その一生を語る著者の熱い息づかいである。絶滅してしまった偉大なる情熱が、著者という口寄せによって蘇(よみがえ)り、かつて少年であった読者の心をたかぶらせる。近来まれにみる胸躍る伝記である。
【この書評が収録されている書籍】
少年の日に初めて採った蝶の与える感動は、誰でも一生忘れられないものである。突然、目の前にその蝶が現れたとき、周りは瞬時にしてぼうっと暗くなり、その空間が異様な光を帯びて見えるような気がする。そうした一種の視野狭窄(きょうさく)の状態の中で、時間があたかも停止しかけているように、ゆっくりゆっくりとものが動き、その蝶の像だけが果てしなく巨大に膨張する。
少年は成長し、たいていはこの時の感動を忘れる。だが、なかには、この「捕虫網の円光」に永遠に魅せられてしまう人もいる。著者はまちがいなくこうした一人だが、その著者が昆虫採集の偉大なる先人として愛情をこめて肖像を描き出したフランス人標本商ル・ムールトも、少年の日に、「彼の人生の最大の幸福の瞬間を味わった」がために、昆虫の採集に一生を捧げることになった人物だった。
一八九七年、土木技師として赴任する父親にしたがって当時囚人の流刑地であった仏領ギアナにおもむいたル・ムールトは、人のいやがるジャングルが、自分にとっての楽園であることを発見し、自分もそこの役人となることを決意する。毒蛇や猛獣のひそむジャングルの奥地は、逆にル・ムールトにとっては、熱帯の美麗な蝶や巨大な昆虫が思いのままに採集できる願ってもない任地だった。なにしろ、流刑地の役人なので、昆虫採集の助手として囚人を自由に使うことができる。さらに、様々に工夫を凝らした夜間採集や囮(おとり)採集のおかげで、珍種の蝶や昆虫がおもしろいように採れる。こうして捕獲した昆虫をヨーロッパの収集家に送って財を築いたル・ムールトは、刑期を終えた囚人たちが作った共同体に採集作業を委託し、パリに念願の昆虫標本店を開く。ロスチャイルドを初めとする世界的な収集家や各地の博物館が南米産の美麗なモルフォ蝶や巨大な甲虫をコレクションに加えることができたのは彼のおかげである。だが、第二次大戦の直前に仏領ギアナの流刑地が廃止され、標本商の栄光は終わりを告げる。ル・ムールトも、多くの「虫屋」の例にもれず、家庭的には恵まれない晩年を送ったという。
このように、採集人・標本商としてのル・ムールトの一生は、それ自体でも、少年王者牧村眞吾のような夢や冒険と、コレクター特有の珍談奇談に満ちているが、著者は、いっぽうで、仏領ギアナの徒刑場の風俗について語るのも忘れない。そこには、役人たちのハウス・ボーイをつとめる模範囚もいれば、足鎖をはめられた悲惨な重罪人もいる。ル・ムールトは、悪魔島の独房に閉じ込められたドレーフュス大尉の郵便物を検閲する作業を命じられたりする。ル・ムールトの一生の物語が、著者の旺盛な好奇心と結び付いて、そのまま、熱帯植民地というもう一つのフランスの巧まざる描写となっている。
しかしながら全編を通じて読者を魅了してやまないのは、なんといっても捕虫網の「円光」に捕らえられたル・ムールトの昆虫採集の情熱と、その一生を語る著者の熱い息づかいである。絶滅してしまった偉大なる情熱が、著者という口寄せによって蘇(よみがえ)り、かつて少年であった読者の心をたかぶらせる。近来まれにみる胸躍る伝記である。
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