書評
『パリ・コレクション―モードの生成・モードの費消』(講談社)
今も昔も、「パリ」こそはフランスの最高の輸出品である。もし、フランスの生み出す文化・芸術・産業に、「パリ」という名前が冠していなければ、その魅力は半減どころか、ほとんど価値を失うにちがいない。ロンドンもニューヨークも、それなりのアウラをもってはいるが、地名としての付加価値という点では、やはり遠くパリにはおよばない。ところで、こうしたパリのアウラを最大限に生かしているものといったら、それはパリモードに止(とど)めを刺す。
モードには絶対的な価値というものがない。たとえば去年のモードと今年のモードとどちらが優れているというような問は問として成立しない。今年のモードは、去年のモードではなく今年のモードであるという、ただそれだけの点で価値をもつ。では、いったい、今年の流行であるということを保証するのはだれなのか。デザイナーか、それともマスコミか。もちろん、そのいずれでもない。今年の流行であるとお墨付きを与えるもの、それは「パリ」のアウラである。パリファッションだからこそ、それが「今年のモード」として通用するのであって、いくらニューヨークや東京がモードの発信地として頑張ってみても、所詮(しょせん)こうした記号的価値は持ち得ないのである。
では、モードに関する、パリのこうしたアウラはいったいどのようにして生み出されたのか、そして、そのアウラは「パリ・コレクション」というモードの制度によってどうやって維持されてきたのか、そのメカニズムを説き明かすこと、それが本書の意図である。
モードの首都としてのパリの歴史は古い。だが、デザイナーの名前がパリファッションと結びついて、ひとつの付加価値をもつようになったのは、十九世紀の半ば、第二帝政の時代にイギリスからやってきたチャールズ=フレデリック・ワース(フランスではウォルトと発音)がナポレオン三世の皇妃ウージェニーの専属デザイナーとなったときからである。ウォルトの天才は、材料費や工賃に加えて「デザインという付加価値に対しても対価を求めた」ことにあった。彼はそれまでは匿名であったデザインという要素に、「ウォルト」という名前を付け加えることに成功したのである。これをもって、「パリ・コレクション」の成立とみることができる。すなわち、パリのオート・クチュール(高級な仕立て服)が、季節ごとの作品コレクションを発表し、それがその年の欧米のモードを決定するという制度がここに確立したのである。
しかし、著者によれば、こうしたパリのオート・クチュールは、社会が産業革命と商業革命によって、衣料の大衆化への道を歩み始めたそのときに、新しく上流階級となった新興のブルジョワジーが自らの階級を他から区別するための「新しいモードのシステム」を必要としたからこそ、成り立ったのだという。ところで、このオート・クチュールが従来の高級な仕立て屋と根本的に異なっていたのは、新しい富裕階級を差別化するためのオリジナリティを打ち出す一方で多くの人々によってコピーされるような反復可能性を内に秘めていた点にある。つまり、どれだけコピーの連鎖を引き起こすかで、オート・クチュールのメゾンの価値が逆に規定されるという新しい現象が生まれたのである。こうして、コピーの連鎖を生み出すための装置としてのモード雑誌の影響力が増し、万国博覧会がメゾンの重要な宣伝の機会となる。
オート・クチュールの与えた影響は、単にモードの制度の変化にとどまらなかった。著者が「女性の解放者」と呼ぶ革新的なデザイナー、ポール・ポワレの出現は、二十世紀のアートシーン全体に根本的な変容を強いたからである。すなわち日本のキモノとギリシャ風ドレスに着想を得て、ゆったりとしたハイ・ウェストのドレスをつくりだしたポワレは、女性をコルセットの拷問(ごうもん)から解放すると同時に、「機能性と単純性」という二十世紀の基調となるコンセプトを打ち出し、アート・デザインの根本原理に見直しを迫ることになる。ポワレはまた、「自社ブランドの香水を作り、インテリアの学校と店をつくり、テキスタイルを開発するという、トータルなファッションビジネス」の先駆けとなったが、一九二九年に世界恐慌が発生すると、有閑階級の女性をターゲットとするその姿勢が災いして、一線から退くことを余儀なくされる。それと入れ代わりに、社会で活動する新しい女性のためのモードを生み出したのが、ガブリエル・シャネルだった。シャネルは機能的で動きやすいメンズ・スーツのコンセプトを女性服に取り入れ、簡単で、しかもシックなカーディガン・スーツを生み出したが、「彼女がつくりだしたのは、変貌した時代の新しい女性の新しい生き方であり、振る舞い方だった」。
ところでウォルトからシャネル、スキャパレリに至るまでのこうしたパリモード史は、もちろん本書の中心的テーマの一つだが、シャネル以降、つまり第二次大戦から現代までのパリ・コレクションの変遷を扱った五章以下も興昧深い考察に満ちている。
まず、ファッションのアイディアをパリに頼っていたアメリカとイタリアのモード業界が戦争の影響で自立を余儀なくされ、それぞれ、アメリカンカジュアルとミラノファッションを生んだという指摘がおもしろい。しかし、より興味をひかれたのは、プレタ・ポルテ業界のデザイナー(スティリスト)たちが次第に力を持つようになり、オート・クチュールと同じようなシステムで、パリ・コレクションを発表するようになる、六〇年代から七〇年代のパリ・コレの記述である。この部分は、著者が実際にたちあった、ケンゾー、三宅一生らの日本人デザイナーのパリ・コレの雰囲気が生き生きと描きだされていて興味が尽きないが、それと同時にオート・クチュールとプレタ・ポルテの組合の組織の違いや、パリ・コレの準備の仕方などもわかりやすく説明されていて、素人にはまことにありがたい。
しかし、本書で最も重要なのは、やはり「モードの欲望とパリ・コレクション」と題した最終章の次のような一節だろう。
この一節はファッションの発信と受信、オリジナルとコピーという限りないモードの欲望の連鎖が、パリコレクションという一つの記号によって支えられていることをあますところなく教えている。「パリ」と「モード」、この二つは、互いに他を絶対に必要とする永遠のダブル・バインドなのである。
【この書評が収録されている書籍】
モードには絶対的な価値というものがない。たとえば去年のモードと今年のモードとどちらが優れているというような問は問として成立しない。今年のモードは、去年のモードではなく今年のモードであるという、ただそれだけの点で価値をもつ。では、いったい、今年の流行であるということを保証するのはだれなのか。デザイナーか、それともマスコミか。もちろん、そのいずれでもない。今年の流行であるとお墨付きを与えるもの、それは「パリ」のアウラである。パリファッションだからこそ、それが「今年のモード」として通用するのであって、いくらニューヨークや東京がモードの発信地として頑張ってみても、所詮(しょせん)こうした記号的価値は持ち得ないのである。
では、モードに関する、パリのこうしたアウラはいったいどのようにして生み出されたのか、そして、そのアウラは「パリ・コレクション」というモードの制度によってどうやって維持されてきたのか、そのメカニズムを説き明かすこと、それが本書の意図である。
モードの首都としてのパリの歴史は古い。だが、デザイナーの名前がパリファッションと結びついて、ひとつの付加価値をもつようになったのは、十九世紀の半ば、第二帝政の時代にイギリスからやってきたチャールズ=フレデリック・ワース(フランスではウォルトと発音)がナポレオン三世の皇妃ウージェニーの専属デザイナーとなったときからである。ウォルトの天才は、材料費や工賃に加えて「デザインという付加価値に対しても対価を求めた」ことにあった。彼はそれまでは匿名であったデザインという要素に、「ウォルト」という名前を付け加えることに成功したのである。これをもって、「パリ・コレクション」の成立とみることができる。すなわち、パリのオート・クチュール(高級な仕立て服)が、季節ごとの作品コレクションを発表し、それがその年の欧米のモードを決定するという制度がここに確立したのである。
しかし、著者によれば、こうしたパリのオート・クチュールは、社会が産業革命と商業革命によって、衣料の大衆化への道を歩み始めたそのときに、新しく上流階級となった新興のブルジョワジーが自らの階級を他から区別するための「新しいモードのシステム」を必要としたからこそ、成り立ったのだという。ところで、このオート・クチュールが従来の高級な仕立て屋と根本的に異なっていたのは、新しい富裕階級を差別化するためのオリジナリティを打ち出す一方で多くの人々によってコピーされるような反復可能性を内に秘めていた点にある。つまり、どれだけコピーの連鎖を引き起こすかで、オート・クチュールのメゾンの価値が逆に規定されるという新しい現象が生まれたのである。こうして、コピーの連鎖を生み出すための装置としてのモード雑誌の影響力が増し、万国博覧会がメゾンの重要な宣伝の機会となる。
オート・クチュールの与えた影響は、単にモードの制度の変化にとどまらなかった。著者が「女性の解放者」と呼ぶ革新的なデザイナー、ポール・ポワレの出現は、二十世紀のアートシーン全体に根本的な変容を強いたからである。すなわち日本のキモノとギリシャ風ドレスに着想を得て、ゆったりとしたハイ・ウェストのドレスをつくりだしたポワレは、女性をコルセットの拷問(ごうもん)から解放すると同時に、「機能性と単純性」という二十世紀の基調となるコンセプトを打ち出し、アート・デザインの根本原理に見直しを迫ることになる。ポワレはまた、「自社ブランドの香水を作り、インテリアの学校と店をつくり、テキスタイルを開発するという、トータルなファッションビジネス」の先駆けとなったが、一九二九年に世界恐慌が発生すると、有閑階級の女性をターゲットとするその姿勢が災いして、一線から退くことを余儀なくされる。それと入れ代わりに、社会で活動する新しい女性のためのモードを生み出したのが、ガブリエル・シャネルだった。シャネルは機能的で動きやすいメンズ・スーツのコンセプトを女性服に取り入れ、簡単で、しかもシックなカーディガン・スーツを生み出したが、「彼女がつくりだしたのは、変貌した時代の新しい女性の新しい生き方であり、振る舞い方だった」。
ところでウォルトからシャネル、スキャパレリに至るまでのこうしたパリモード史は、もちろん本書の中心的テーマの一つだが、シャネル以降、つまり第二次大戦から現代までのパリ・コレクションの変遷を扱った五章以下も興昧深い考察に満ちている。
まず、ファッションのアイディアをパリに頼っていたアメリカとイタリアのモード業界が戦争の影響で自立を余儀なくされ、それぞれ、アメリカンカジュアルとミラノファッションを生んだという指摘がおもしろい。しかし、より興味をひかれたのは、プレタ・ポルテ業界のデザイナー(スティリスト)たちが次第に力を持つようになり、オート・クチュールと同じようなシステムで、パリ・コレクションを発表するようになる、六〇年代から七〇年代のパリ・コレの記述である。この部分は、著者が実際にたちあった、ケンゾー、三宅一生らの日本人デザイナーのパリ・コレの雰囲気が生き生きと描きだされていて興味が尽きないが、それと同時にオート・クチュールとプレタ・ポルテの組合の組織の違いや、パリ・コレの準備の仕方などもわかりやすく説明されていて、素人にはまことにありがたい。
しかし、本書で最も重要なのは、やはり「モードの欲望とパリ・コレクション」と題した最終章の次のような一節だろう。
この数字(フランスモードの売上)を見てあらためて印象的なのはオート・クチュールのメゾンは、本来のオート・クチュールで成り立っているのではないという事実、それにもかかわらず、プレタ・ポルテの売上高は、オート・クチュールのブランドを持つもののほうが、プレタ・ポルテ系のブランドのものよりも少しだが多い。さらに、売り上げの大部分を占めるアクセサリーと香水を含めた数字となるとオート・クチュール系はプレタ・ポルテ系のほぼ十倍にもなるのである。(……)こういった品々とオート・クチュールのブランドの結びつきは、オート・クチュールのブランドという、いってみれば虚の存在の知名度が、世界中でどれほど高いかということをあらためて認識させよう。このことこそ、パリ・コレという場を通して、新聞や雑誌が繰り返し繰り返し、まるで呪文のように何十年となく世界中にむかって繰り返してきた《パリ・モード=プレステージ》と翻訳される記号なのである。(……)パリ・コレ、それは私たちのこの社会が必要としているある意味を持った記号を発信し、その多くの複製を生み出すための一つのシステムなのである。
この一節はファッションの発信と受信、オリジナルとコピーという限りないモードの欲望の連鎖が、パリコレクションという一つの記号によって支えられていることをあますところなく教えている。「パリ」と「モード」、この二つは、互いに他を絶対に必要とする永遠のダブル・バインドなのである。
【この書評が収録されている書籍】
初出メディア

文化会議 1993年9月1日
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