書評
『二十世紀のパリ』(集英社)
ヴェルヌの幻の作品が発見され、百三十年ぶりに日の目を見た。しかもそれは一世紀後のパリを描いた未来小説だったとくれば、ヴェルヌ・ファンでなくとも耳を攲(そばだ)てずにいられない(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1995年)。
一九六〇年のパリ。圧搾空気の鉄道がパリを走り、道路にはガス自動車が溢(あふ)れ、夜の街は電灯で照らされ、証券取引所には、世界の株価が電光掲示板で示されている。百年後のテクノロジーの予測はかなり正確である。
しかしヴェルヌの執筆意図は、こうしたテクノロジー予想にあるのではなく、効率と利潤を重んじる資本主義が芸術や文学などを無用の長物として駆逐した世界を描くことにある。当たっているのはむしろこちらの予測である。なかでも、ユゴーもバルザックもとうの昔に絶版となり、文学者や芸術家という職業自体がなくなっているという予言は、とりわけ日本では大当たりといっていい。
そんな世界に、さながら十九世紀からタイム・スリップしたかの如き詩人肌の青年ミッシェルが現れるが、結局社会に容(い)れられず、最後は、墓地から文明のパリを呪うところで終わる。
ヴェルヌは、第二帝政下で始められた高度資本主義が伝統社会をラディカルに破壊することを感じ取っていたのだろう。
ヴェルヌは晩年になってから悲観的な未来予測に傾いたとする従来の定説は、この初期作品の発見で完全に覆ったことになる。
翻訳には、訳注を含めて、疑問に思われる箇所がすくなからず目についた。
【この書評が収録されている書籍】
一九六〇年のパリ。圧搾空気の鉄道がパリを走り、道路にはガス自動車が溢(あふ)れ、夜の街は電灯で照らされ、証券取引所には、世界の株価が電光掲示板で示されている。百年後のテクノロジーの予測はかなり正確である。
しかしヴェルヌの執筆意図は、こうしたテクノロジー予想にあるのではなく、効率と利潤を重んじる資本主義が芸術や文学などを無用の長物として駆逐した世界を描くことにある。当たっているのはむしろこちらの予測である。なかでも、ユゴーもバルザックもとうの昔に絶版となり、文学者や芸術家という職業自体がなくなっているという予言は、とりわけ日本では大当たりといっていい。
そんな世界に、さながら十九世紀からタイム・スリップしたかの如き詩人肌の青年ミッシェルが現れるが、結局社会に容(い)れられず、最後は、墓地から文明のパリを呪うところで終わる。
ヴェルヌは、第二帝政下で始められた高度資本主義が伝統社会をラディカルに破壊することを感じ取っていたのだろう。
ヴェルヌは晩年になってから悲観的な未来予測に傾いたとする従来の定説は、この初期作品の発見で完全に覆ったことになる。
翻訳には、訳注を含めて、疑問に思われる箇所がすくなからず目についた。
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