書評
『シドニー!』(文藝春秋)
クォリティーの高い退屈さ
二〇〇〇年九月十一日から十月三日まで、村上春樹は二十世紀最後の夏季オリンピックが開催されたシドニーに滞在し、毎日なにがしかの競技を観戦して精力的に日誌を記しつづけた。本書はその一部を再構成したものだが、試合の結果とそこにいたるまでの過程を、選手の回想や分析を切り張りしながらヒューマン・ドキュメントに仕立てていくあのスポーツ観戦記の定番とはかけ離れた、奇妙なゆがみを提示している。もちろんそのゆがみは、明確な意図にもとづく戦略であって、具体的にはふたつの要素からなっている。まずは二十余日間に及ぶ自由気ままな日誌と、それをはさみこむ半小説的な序章および終章との文体の断絶。有森裕子、犬伏孝行というふたりの敗者を素材とする頁が、ここ数年のあいだに村上氏がひとつの手法にまで高めた「聞き書き」の、いや、より正確には、聞く側と聞かれる側が、あいだに置かれた敷居を踏み越えないよう本能的に自己規制しながらの双方向的ヒーリングであるのに対し、日誌の部分は、無理にはしゃいだり気の利いた冗句を発しては自分で自分を昂ぶらせ、慰めようとする一種のひとり芝居に近い。言葉の選択や組み立て方において、それらは完全に異質なものである。
ところが両者は、文体に隔たりがあるにもかかわらず、問いかけの深さと本質への侵入角度においてまったく同等であり、この落差こそが、第二のゆがみを生み出している要因なのだ。過程と成熟を無視した結果がもたらす利益と損失の配分。それを十二分に理解しつつ、しかし無念にも敗れていったふたりの長距離ランナーの孤独を、著者は自身の創作行為に重ね合わせる。そして、彼らの孤独の声に耳を傾けることと、シドニーであれ東京であれ、いま現在、世界の都市の各地を覆っているなにか不吉なむなしさへの感度を高める修練の必要性とを結ぼうとしているかに見える。
四十二キロは「終わり」ではなく「何かべつのものの新たな始まり」だという有森の言葉を、作家はこう伝えている。「ここでもそこでも私は勝ち、同時に負ける。その世界では誰もがおそろしく孤独なのだ。そして苦痛はいつもそこにあるだろう。まずまず苦しいか、あるいはひどく苦しいか。でも私は苦痛を恐れない。そんなものを恐れるわけにはいかない」と。
商業主義と権威主義と効率主義とがないまぜになった巨大な祭典の全体を心の底から愛せる人は、おそらく誰もいないだろう。あるのは現場に息づく生きた細部と、そこで競技者が自分自身に支払った肉体と精神の代価だけだ。勝つことは正義ではないし、悪でもない。それはつねに外部から求められている代理戦争であって、同時に競技者が利用して生きていくための武器でもある。オリンピックと呼ばれる巨大な「祭りごと=政」のおそろしい非現実と退屈さをそんなふうに直視する作家の醒めたまなざしが、逆に正真正銘の感動の根を引き抜いてみせる。いわば「正しいゆがみ」を生み出すのだ。
肥大しすぎた器をもとに戻すことは、もはや誰にもできない。度を超した空虚の、「クォリティーの高い退屈さ」のなかで、アスリートも観戦者もおのれの居場所を問い直し、ながい戦(いくさ)のあとを生きる準備にとりかからねばならない。表題にある感嘆符は、そのような「いま」に対する嘆きであり、励ましでもあるだろう。
【この書評が収録されている書籍】
週刊文春 2001年2月15日
昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。
ALL REVIEWSをフォローする








































