書評
『モグラびと ニューヨーク地下生活者たち』(集英社)
太陽から遠く離れて
本屋でタイトルや帯を見て、これは絶対面白いだろうなあという本があって、実際に読んでみるとやっぱり面白かったっていうのはたいへん嬉しい。それが『モグラびと』(ジェニファー・トス著、渡辺葉訳、集英社)だった。副題は「ニューヨーク地下生活者たち」で、ニューヨークというとホームレスでも有名なんだが、なんとそのニューヨークには地下へ潜行して暮らしている多くのホームレス集団があるのだそうだ。マンハッタン島は巨大な岩盤の上に乗っかっている。その岩盤を刳(く)り抜いて地下鉄やら下水道やら無数の地下道が生まれた。それはあまりに多すぎて、専門家でさえその全貌はわからない。いちばん深いところでは地下七階分もあるというニューヨークの地下に住み着いたホームレスたちの物語。そして、地下に住む人たちという意味で、彼らは「モグラびと」と呼ばれるようになった――と聞けば誰だって読みたくなるだろう。
著者のジェニファー・トスは若い女性ジャーナリスト。彼女は「モグラびと」に興味を持つようになりやがて自ら志願して地下世界への探検を開始する。そこは、世界最大の都市の地下にあるもう一つの都市だ。少し入ればもう光は射さずただ暗闇だけが広がっている。汚濁、腐敗臭、動物のあるいは人間の死骸。『神曲』でダンテが煉獄から地獄へ下りていったように、ジェニファーは一階ずつ深い場所へ下りてゆく。そして、この闇の世界にも階層があることを知る。地下一階の住民は地下二階の住民を恐れるが、その住民もさらに深い闇の底に住む地下三階の住民を嫌悪し、なにも語ろうとはしない。やはり、そこはなにより地獄と構造がそっくりなのだろうか。その地獄巡りをするジェニファーには、彼女を先導し保護するモグラびとがいる。そんなところまで『神曲』にそっくりなのかと驚くのはぼくだけではあるまい。
ジャンキーがいて、殺し屋がいる。世捨て人にアル中、精神を病んだ者、病人もいる。インテリやアーティストもいれば不可解な力を持つ「闇の天使」もいる。多くの「モグラびと」はいつか地上へ光ある世界への復帰を願っているが、そのために必要ななにかがもうすっかり壊れてしまっていることを実はよく知っているのである。
ぼくはこの魅力的な本を一気呵成に読んでからしばらくとりとめのない思いに耽っていた。
三十数年前、九州で戦後最大のストライキがあった。主役の炭鉱労働者たちは生活と仕事の場である炭坑に潜りこんで戦ったのだが、その様子はオルガナイザーとして参加した谷川雁の幾つかの作品の中で読むことができる。詩人でもあった谷川雁は、闘争の中で何度も「底へ、地下へ、最も豊かな存在である闇の中へ」と書き続けた。
図式的な書き方をするなら、その時、近代社会という光とそれに反発する反近代の闇の激突が、炭坑という象徴的な場所で行われ、近代が勝ち暗闇は放逐され、日本において近代社会が完全に成立することになったのである。
では、その暗闇はどうなったのか。ぼくにはこの本の中に出てくるニューヨークの地下の暗闇が、光と闇の激突のずっと後、その遥か「戦後」の風景であるような気がする。「最も豊かな存在である闇」は木っ端みじんに打ち砕かれ、死の世界に変貌したのである。だとするなら、その暗黒世界を成立させた「過去」をもう少し知りたいと思ってしまうのだ。そして、同じような戦いがあった日本にも、ニューヨークと同じ暗闇と「モグラびと」がいることをぼくは疑わないのである。
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