書評
『センス・オブ・シェイム 恥の感覚』(文藝春秋)
「恥ずかしさ」をひとくくりにできない
ほとんど見ないフェイスブックを時たま立ち上げると、これまで3回くらいしか会ったことのない中年男性の夕食の写真が目に入る。会った回数の何十倍も、彼の夕食の写真を見ている。毎度、「あんたの夕食なんて、どうでもいいよ」と思う。人に見られる価値のあるものだと思っている、その自意識を想像し、恥ずかしくなってくる。著者は、SNSというシステムによって、「恥の感覚」が「変わった」のではなく「掘り起こされた」のではないか、と指摘する。「みんなこんなに自慢したかったのか!」、まったくそう思う。世間にどう見られているかばかりを気にし続ける社会で、一応知っている人だけが見ているという環境下にドバドバ漏れ始めた自慢を眺めつつ、「恥」の正体を探し当てる歩みが始まる。
冷静な視線によって、身近なエピソードから拾い上げられる「恥」の数々。カラオケボックスに入り、「ドアを閉めた瞬間の、そこはかとない気まずさ」。歌い始める瞬間までの牽制(けんせい)に「恥」が顔を出してしまう。
人は死ぬと「穏やかな顔をしている」などと見られる側になるが、遺族が故人の友人などに「会ってやってくださいますか?」などと、見られる対象を選んじゃうのってどうなのか。故人の「恥」は尊重されない。
ルース・ベネディクトが『菊と刀』で「日本人の生活において恥が最高の地位を占めている」と記したように、日本人は、これをやったら恥ずかしい、という判断を繰り返してきた。他人の目なんか気にせず生きよう、というメッセージが聞こえてくる。でも、そういうのって、なんだか「恥」を雑に捉えている感じが残る。「恥」は変化しているのに、全貌がなかなか見えない。その変遷と現在を超細かく可視化してみせた。
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