語られず消えゆく言葉掘り起こす
戦争を語り継がなければいけないが、どのように、という視点・論点を欠かしてはいけない。今起きている戦争・紛争をめぐって、為政者の目線を借りるように大言壮語を繰り返す語りに溢(あふ)れている。あれをこうしたらいいのに、このあたりで諦めたらどうか……机上でコマを動かすかのような持論が飛び交う。撃ち込まれる人間が見えてこない。いつの間にか、撃ち込む人間と同化してはいまいか。本書は、日本で生まれたコリアン女性である母の人生を、社会学者の娘が綴(つづ)る形のノンフィクション。著者が23歳になろうとする時、朝鮮戦争を生き延びて渡米した母が「韓国でアメリカ人相手のセックスワーカーだった」事実を知った。なぜ黙り続けていたのか、なぜ打ち明けたのか。「恥辱という重いマントを脱ぎ、秘密という重荷から、みずからを解放したい」と考えた理由を、ゆっくりと手繰り寄せていく。
2001年、アメリカ同時多発テロが発生した後に体調を崩した母が、脱脂粉乳には決して手をつけなかった。理由を問うた時に返ってきた言葉が、書籍の題となった。「かれらはわたしに、脱脂粉乳を買ったのよ」「あの味は耐えられない」「戦争みたいな味がするから」、断片的な語りから、何が起きていたのかが見えてくる。
戦争が個々に与えたダメージは数値化されない。隠されたままになる。だが時折、顔を出す。顔を出すと、それは本当か、と疑われ、何を今さらと嗤(わら)われる。「人種、階級、ジェンダー、セクシュアリティにまつわる差別構造」(訳者あとがきより)という、自由な呼吸を妨げる力が重なる中で縮こまらざるを得なかった母は、やがて、精神疾患を発症してしまう。
「皆がわたしたちの家族の悪口をいっているの。だからわたしは、なんとかしないといけないのよ」と言いながら、家を出て行こうとする母。一体、「母の狂気を引き起こすトリガー」はどこにあるのか。母を知り、家族を知り、自分を知る。こんがらがった紐(ひも)をほどくために、その一本一本を丁寧に見つめていく。
人はどんな時でも食べる。食べようとする。食べなければ生きていけない。母の道程を調べていくうちに気がつく。「幼かったころ、母の食べものでお腹が満たされていたわたしは、食事のときの儀式の意味、あるいは家族の夕飯をつくることが、母親としての義務以上のものである可能性について、深く考えたことはいちどもなかった」、それは、母がようやく獲得した生活だったのではないか。
戦争に翻弄(ほんろう)された個人の歴史の多くは埋もれてしまう。掘り起こされるのを待っている歴史が無数にある。掘り起こすと、かさぶたが剥がれたかのように痛みが改めて生じる。それでも語られなければならなかった。
暮らす。食べる。育てる。その営みを獲得するためにどれだけの山を乗り越えなければならなかったのか。母の回想を形にする娘の葛藤も含め、ページをめくる手が重くなってくる。
でも、この重さを感じるべきなのだ。コマのように人間を扱いながら戦争を語るとき、重さが消える。そうさせてはいけない。こうして語られたことを知り、その上で、まったく語られないまま消えていったであろう、多くの出来事への思いを馳(は)せる。