書評
『住宅道楽―自分の家は自分で建てる』(講談社)
奇怪な注文主と建築家の奮闘記
もし読者で、地価も下ったことだし、住宅を作る計画を立てようか、なんて考えて、住宅雑誌を手にしてワクワクしている人がいたら、ページを開くまえにこの本を読んでいただきたい(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1997年)。現代の日本の住宅はそうとうアヤシイところに来ているのである。その代表がハウスメーカーの作るプレハブ住宅だが、もちろん地震で壊れるとかいうのではなくて、まず価格がアヤシイ。プレファブはかつて大工さんに頼むより安いのをウリにしたが、市場を制覇してからはジリジリと値を上げ、今はけっして安くはない。その高価格も、材料や職人手間からくるのならあきらめもするが、一説によると、宣伝を含めた営業費が価格の三割を占めるともいう。生涯の賃金をはたくにしてはあまりな買い物ではないか。
デザインももうちょっとなんとかしてほしい。世界中で、やれアメリカの○○風とか、ヨーロピアンの風格とか、伝統のウンヌンとか、ゴチャマゼの家が展開するのは日本だけ。住宅を商品にしてしまった世界最初の国が日本にちがいないのだが、同じ商品でも、電化製品や車にくらべ、あまりにも質も量も劣りすぎる。
見かけだおしのハウスメーカー住宅がはびこるのにはそれだけの歴史的な必然性があって、いくら良心的な建築家でもこうした時代の潮流から逃れることはむずかしい。良心的、誠実、であればあるだけ商品化の泥沼に足を取られるような構造がすでに確立しているのである。
ではどうすればいいのか。すぐ考えつくのは、民芸路線というか、ログハウス路線というか、手作りや木の味なんかをうたうことだが、しかしそうした路線の高度なウソに気づいてしまった人はどうすればいいのか。もはや道は一つ“タダクルエ”。
建築家・石山修武は、そうしてクルッタのだった。
クルッタ結果、彼の目には、現代の住宅のおおかたが虚構の産物に見えてきた。そして世間の常識やいかにもの家庭から逸脱した住宅の中に真実を求めてゆく。
たとえば、彼の前にある日現われた注文主は、手持ち資金ゼロの結婚状態の男二人。
それでイタク闘争心をかきたてられた。家族という概念がはじまりにない。もちろん子供部屋もない。だって生れるはずがない。そうするとリビングルームもなくなる。個室もなくなる。だって(男同志だから)プライバシーがいらないという。トイレも風呂にもドアがない。台所だってコンロがふたつあればよいという。なにしろ、ガランとした空間があるだけでよいのだといい張る。
そして、総工費千五百万円の家が完成する。この格納庫のような家の中に納まる家具は二人が拾ってきた物ばかり。たとえば椅子は、「一時代前の理容院に置かれていた、床屋の椅子。ドッシリと重厚で、しかもレバーひとつでリクライニングの角度が変わり、ほとんど水平のベッドみたいになってしまう」
次々に現われる、というより呼び寄せられる、こうした奇怪な注文主と建築家石山の組んずほぐれつの住まい作り奮闘記を読んでいると、原始人が木の枝や石コロを手にして最初の家を作ろうとした時のシーンを現代で見ているような感動を覚える。そして、自分もいっちょやってやろう、とアブナイ元気が湧いてくるのである。
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