書評
『白水社ラルース仏和辞典』(白水社)
かゆい所に手が届く画期的辞書
中村うさぎさんの『パリのトイレでシルブプレ~~!』(角川文庫)を読んでいたらこんな話が出ていた。パリで腹をこわして有料トイレにかけこんだ時、突然ドアのロックが解除された。あわててドアの取っ手を引っ張ると、向こうはムキになって開けようとする。何か言わなくては思っても、知っているフランス語は「ボンジュール」と「メルシー」と「シルブプレー」だけだ。「焦った私は、もう意味も考えずに、うわずった声で叫んでいた。『シ、シルブプレ~~!』」。すると、相手は「パルドン」といって、扉から手を放した。「やれやれ……。だが、用を足し終わって、よおーく考えてみると、『シルブプレー』ってのは『どーぞ』とゆー意味なのだった。(中略)うーむ、恥ずかしいっ!」この部分を読んで「うさぎさん、恥ずかしがることないよ、それで合っているよ」と思った。しかし、既存の辞書には確かに S'il vous plaît の訳語は「どうぞ、お願いします」としか出ていない。そこヘタイミングよく本書が送られてきたので早速 S'il vous plaît を探すと「お願いします、すみませんが」の訳語に続いて「依頼・命令・注文などに添えて。また用事があってこちらに気づかせるときにも使う」と解説があり「S'il vous plaît――Oui?――Je voudrais envoyer ce colis au Japon. 【こちらに気がつかない係員に対して】もしもし、ちょっとすみません――何でしょう?――この小包、日本に送りたいんですけれど」という例文があがっている。だから、うさぎさんの S'il vous plaît は、こちらの存在に気づかずドアを開けようとする相手に注意を喚起する発話だから、「ボン・ジュール」と「メルシー」と「シルヴプレー」の三択だったらこれでいいのである。トイレに「入ってます」の正しい表現はOccupé!「ふさがっています!」か Il y a quelqu'un!「(直訳すれば)だれかいます!」だろうが、咄嵯にこちらの存在をアピールする表現としては S'il vous plaît! は決して悪くない。
この一例からもわかるように、本書は従来の訳語中心の辞書とはまったく異なる方針で編集されている。ラルース社がフランス語を学ぶ外国人のために編んだ機能語中心の『外国語としてのフランス語辞典』をベースにして語彙と用法の懇切丁寧なニュアンスを書き加えたものだからである。通例の辞書の収録語数が二万から三万であるのに対しわずかに八千だが密度が断然ちがう。
特に詳しいのは動詞で、主語に人が来た場合とモノがきた場合の意味と用法の違いなどがかゆい所に手が届くように説明されている。
また、名詞の語義も大胆なところまで踏み込んだ解釈がなされている。essai を引くと、「2試論、エッセイ▼ essai は、ある特定の問題を論じた試論のこと。日本語の『エッセイ、随筆』のように、意の赴くままに感想・見聞などをまとめた文章のことではない」とはっきりした定義がある。訳語もよく考えられていて Bon courage! を「【何かしようとする人に向かって】じゃ、頑張ってください」とは見事。
形容詞は同義語の差異説明が特徴で、日本人にはニュアンスのつかめないprobableは「1【出来事・現象】(十中八九)ありそうな、起こりそうな▼過去・現在・未来のことについて与えられた情報にもとづき、あるいは論理的に推測する。話し手の確信度は certain『確実な』より低く、possible『可能な』より高い」とある。
フランス語をより正しく理解し、書き、話したいと思う人、いや、言葉に関心のある人ならだれにでも強く勧めたい画期的な辞書である。
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする










































