書評
『八犬伝』(朝日新聞社)
虚実を包む愛
「虚の世界」は里見八犬士が縦横に活躍する乱世、「実の世界」はその物語『南総里見八犬伝』の構想を絵師北斎に語りきかせる、滝沢馬琴をとり囲む無事太平の江戸市中のあけくれ。山田風太郎ファンなら、ここで早くも、前者には忍法帖の、後者には歴史上の人物が実名で登場する明治開化物の趣向を嗅ぎつけて、会心の笑みをもらすことだろう。落城寸前の里見一族の難を救う妖犬八房、その功によって八房と人獣交婚すべき悲運に見舞われた伏姫、伏姫の胎からとび散った八つの珠。怪異の連出する出だしは快調である。けれども、サイボーグのように特定器官の異常発達した忍法帖の人物たちとは異なり、馬琴原作の八犬士はいずれも武に秀でているとはいえ、いささか個性味に欠けて類型的である。そこで作者の筆は馬琴批判をそれとなくほのめかせながら、いきおい八犬士の英雄物語に軽く、馬琴その人のすこぶる凡庸な身辺について重くなる。
なり損ねた武家への未練がすて切れない馬琴の、病的なまでの謹厳実直。それを煙たがる、町家育ちの女房お百をはじめとする周囲の人びと。偏屈な彼をあからさまにからかいあなどる、北斎、京伝、京山のような文人たち。あまつさえ架空の出来事とおぼしい、鶴屋南北や鼠小僧次郎吉との出会いのようなおまけまでついて、江戸の当時がいきいきとよみがえる。
それにしても、時をへだてた乱世の勇士たちを劇中劇の人物として、江戸戯作者のしがない実の世界にはめ込んだ趣向は、たんなる趣向にはとどまるまい。おそらく作者には『戦中派不戦日記』の戦中世代として、戦場に散った同世代人をとむらう心があり、それと裏腹に、生きのこったいまの代の人びとの太平を誠する硬派の志がかいま見えるのである。英雄たちの悲劇は終わり、いまはただ喜劇的な世帯風俗の日常が、おそろしく長い物語のようにえんえんと続いて涯しがない、とでもいうように。
終章まできて、盲目の馬琴の口述筆記者として八犬伝を書きつがせる、嫁のお路の姿がにわかに大きくなる。文盲も同様だった、ありふれた町娘の転身である。お路の精魂は発端の伏姫の捨身の慈悲といつしか重なり合い、ここに虚実冥合して、実の馬琴、虚の八犬士をともに包む女性の無私の愛が、物語に手ごたえたしかな厚みをもたせて一巻を閉じる。
【この書評が収録されている書籍】
朝日新聞 1984年2月13日
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