書評
『エレホン』(新潮社)
150年の時超え響く、格差社会への警鐘
本書『エレホン』は、一八七二年にイギリスで刊行された小説である。当初は匿名で、作者がサミュエル・バトラーという若い書き手だと明かされたのは翌年のことだ。エレホンとは、どこでもない場所、すなわちユートピアに転じるnowhereのアナグラムである。作中に登場する国の名だが、原語をほぼ逆さまにした文字の並びになっているので、意味的にも反対になることが想像される。語り手の「わたし」は、ある事情からイギリスの植民地に赴き、牧畜に適した未開の地を探して投資し、金儲けを企む。作品全体がその試みから戻った彼の手記の体裁をとっており、しかもこの本で起業のための援助を仰ごうという意図が語られている。アイデアを盗まれて競合者に先手を取られないよう、場所を具体的に記さないとする但し書きじたいがすでに皮肉である。
ヨーロッパ人が入植し、開拓を進めていたある土地に語り手が到着するのは一八六八年の終わり、二十二歳のときだった。牧場で働いたのち、あらたな農地にできる土地を探すべく、二年後、現地の助手をひとり連れて出発する。ところが助手は大山脈を越える途中で引き返してしまったため、語り手はひとり過酷な山越えをする羽目になる。このあたりは山岳小説ともいうべき鮮やかな描写がつづいて飽きさせない。
彼が見出したのは、エレホンという驚くべき国だった。短期間で言語を習得し、住民たちと自由に話せるようになるにつれ、エレホンの文化がいかに奇妙なものであるかが、戦慄とともに明らかになってくる。人々は美しく、善意にあふれ、折り目正しい。みな上機嫌で健康に見える。ところがこれは、語り手の常識とは正反対の考え方に基づく、強いられた結果だったのだ。
人を騙し、道徳に反する行いをしても非難されず、法的にも罰せられない。ところが、病気になったり、親友や妻に死なれたりすると罪になる。出産は不吉なこととされ、金持ちは敬われ、一定以上の収入があれば税は免除される。大学では「仮説学」なる「屁理屈」を押しつけられ、独創性も個性も不要とされる。なにより重視されるのは横並びの姿勢だ。しかも芸術は、つねに収益性とともに語られる。
特筆に値するのは、機械に関する考え方である。この国では、進化した機械に人間が支配されることを怖れ、「使いはじめられてから二七一年以上経たない機械はきれいさっぱり廃棄処分」となっている。だから懐中時計ひとつ所持できない。
エレホンの住人を支えているのは、強者の論理のもとで弱者を切り捨てるような優生思想に近い考え方を少しも疑わずに育てられ、独裁国家のシステムに組み込まれた偽りの自助である。本作には、当時のヨーロッパが直面していた自由競争の追求の果ての、格差社会に対するバトラーの風刺が働いている。
当然支えとなるべき公助を後回しにし、根拠の怪しい自助に縛られているエレホンは、一五〇年前の異国ではなく、二十一世紀の日本そのものだ。
どこにもない場所を、いまここにある場所に転換させるのは、まちがいなく文学の力だと言っていいだろう。
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